山崎支隊による救援作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 04:35 UTC 版)
第33軍は、バーモ守備隊の持久限度を12月中旬と判断した。そして、第56師団の撤退による戦面収縮の結果、兵力の余裕が生じたことも踏まえ、バーモ救出作戦を決行することとした。ところで、9月以降ナンカンで戦力回復に努めていた第18師団は、英印軍がカーサ方面から第33軍と第15軍の中間地区を衝き、一挙にマンダレー方向へ南下する可能性に備え、11月中旬にナンカン南西のモンミットに急進していたが、山崎連隊(歩兵第55連隊)を基幹とする一部隊をナンカンに残置していた。第33軍は、山崎支隊長に、山崎連隊主力(歩兵第55連隊の歩兵2個大隊半及び連隊砲中隊)、第56師団の一部(歩兵1個大隊、砲兵1個大隊、工兵2個小隊)、第49師団の歩兵1個大隊を併せ指揮させ、バーモ守備隊救出に当たらせることとした。山崎支隊の兵力は、歩兵約2,250名、砲兵約500名(9門)、工兵その他約500名、合計約3,250名だった。支隊には第33軍後方参謀の黍野弘少佐が配属され、後に辻大佐も同行した。 山崎支隊は企図を秘匿しながら逐次ナンカンを出発し、12月9日、ナミュ高地(バーモ-ナンカン道の中間)を急襲した。敵は一時狼狽混乱したが、12月11日頃以降、バーモ正面からも相当の兵力を抽出し、1個師半の戦力で反撃に転じた。山崎支隊は勇戦するも、日時の経過とともに戦勢逆転し、漸次守勢に立つに至った。
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