小説と見なされたレーゼシナリオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 02:08 UTC 版)
「レーゼシナリオ」の記事における「小説と見なされたレーゼシナリオ」の解説
『ニグロフォビア』や『ダッチ・シュルツ 最期のことば』の日本語版には、「映画シナリオ形式の小説」と副題がついており、また、英語版wikipediaの記事でも"novel"(=小説)とされている。このことから、レーゼシナリオが必ずしも戯曲に分類されるとは限らない、ということがわかる。 ロバート・アントン・ウィルソンも、両者と似た趣向の作品"Reality Is What You Can Get Away With"を書いており、その独特のスタイルについて"novel-cum-screenplay"(小説兼映画脚本)と称されたこともある。レーモン・クノーの『イカロスの飛行』も、ファンサイトで「Roman en forme de scénario(シナリオ形式の小説)」と呼ばれた事実がある。 以上のように、レーゼシナリオが戯曲の一ジャンルではなく、小説の一ジャンルに分類されてしまうことも少なくない。散文で書かれたフィクションを小説と呼ぶのであれば、レーゼシナリオもレーゼドラマも、散文劇の戯曲でさえも小説に分類しても間違いではない。しかし、生物学的には人間も動物でありながら日常会話で「動物」と言ったら「人間以外の動物」を指すのが暗黙の了解であるのと同様に、「小説」と言ったら普通そこに劇文学は含まない。にもかかわらず、レーゼシナリオだけが小説に分類されることがあるのは、映画などの映像メディアの歴史が浅く、シナリオが、戯曲とか劇文学とは程遠いものと見なされてきた、という背景があるからであろう。 『マッキンリー氏の逃亡』も、「シナリオ体のSF小説」と紹介されたことがある。平井和正の『ハルマゲドンの少女』は、「シナリオノベル」という呼称で発表された。
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