小田急線の開通と戦後の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 03:34 UTC 版)
「狛江弁財天池特別緑地保全地区」の記事における「小田急線の開通と戦後の開発」の解説
1927年(昭和2年)、小田原急行鉄道小田原線が開通し、同年に狛江駅が開業した。狛江駅周辺は1937年(昭和12年)頃から宅地化が進んだ。 この当時、弁財天池の大きさは約200平方メートルで、1分間に約9立方メートルの水が湧き出ていた。水温は季節を通じ13.1℃。この水を利用して四谷区教育会は池の南に50メートルプールを作った。 第二次大戦後の高度経済成長期になると、狛江は住宅都市として発展し、人口は急増していった。その中で六郷用水は昭和40年代に埋め立てられた。さらに1967年(昭和42年)には弁財天池が初めて干上がった。これは地下水の汲み上げ量が増えたためだと考えられている。その後、再び湧き出すこともあったが、1972年(昭和47年)を最後に湧水は途絶えた。 一方、1973年(昭和48年)には弁財天池遺跡で初の発掘調査がなされた。また同年3月、弁財天池が狛江市史跡第一号に指定された。
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