小牧・長久手の戦いと晩年
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「滝川一益」の記事における「小牧・長久手の戦いと晩年」の解説
天正12年(1584年)、今度は織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げた(小牧・長久手の戦い)。一益の婿である滝川雄利は信雄の家老を務めていたが、一益は秀吉に隠居から呼び戻され、今回は秀吉方となった。この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を調略し、6月16日に伊勢白子浦から蟹江浦に3千人の兵を揚陸。先に没収された蟹江城から信雄方の佐久間信辰を追放し、更に、下市場城、前田城を占拠した。当時、蟹江城は海に面しており、織田信雄の長島城と徳川家康の清洲城の中間に位置する重要拠点であった。しかし、山口重政の守る大野城の攻略には失敗し、家康と信雄の主力に下市場城、前田城を奪還され、蟹江城も包囲されてしまう。一益は、開城交渉も含め半月以上粘ったが力尽き7月3日に開城した。しかし、退去中に攻撃されて前田長定が討ち取られ、一益は命からがら船で伊勢に逃れている(蟹江城合戦)。 羽柴秀吉は、伊勢に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集めて、7月15日に尾張の西側から総攻撃を計画していたが、間に合わず中止となった(『浅野家文書』)。 7月12日、以前からの約定により秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられ、自身にも3千石を与えられたが、嫡男の一忠は敗戦の責任を負わされ追放、羽柴秀長に身柄を預けられた。同年11月、滝川雄利は一益を通じて秀吉に接近し、信雄との和平を纏めている。 一益は天徳寺宝衍、山上道及等と共に秀吉の東国外交を担っており、天正12年(1584年)6月、秀吉から佐竹義重(沼尻の合戦に参戦中)への返書の添状、天正13年(1585年)11月、梶原政景への書状にて、秀吉による小田原征伐を予告している。彼らの活動は、その後の北条氏にとって不利に働いたと考えられる。 天正14年(1586年)9月9日越前大野にて死去。享年は62と云われる。
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