小泉セツとは? わかりやすく解説

小泉節子

(小泉セツ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/30 04:37 UTC 版)

小泉八雲(左)と節子(右)

小泉 節子(こいずみ せつこ、1868年2月26日慶応4年2月4日[1]〉- 1932年昭和7年〉2月18日[1])は、小泉八雲の妻。日本に関する八雲の著述を支えた。戸籍上の名前は小泉 セツだが、本人は節子の名を好んだ[2]

概要

出雲松江藩の家臣小泉家の次女として生まれ、親戚の稲垣家の養女となる。子供の頃に稲垣家が没落して節子は11歳から生家の機織会社で織子として働いた。18歳の時に婿養子を迎えて結婚したが、夫は貧しさに耐えられず出奔。22歳で正式に離婚し小泉家に復籍する。家計を支えるため松江の英語教師として赴任したラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)の家の住み込み女中となり、のちに結婚した。夫・八雲の日本語の理解を助けるとともに、幼少時から物語が好きだったこと[3]もあって日本に関する八雲の著述を支えた。八雲との間に三男一女をもうけた。八雲の死後に、八雲との思い出をつづった「思い出の記」を著した[4]

生い立ちから八雲との結婚まで

1868年慶応4年)2月4日松江に生まれセツと命名される。父は出雲松平家の番頭で家禄300石の小泉弥右衛門湊、母はチエ[5]。6人兄弟の次女。生後7日で親類で子供の無かった家禄100石の稲垣家の養女となる。

幼いころから物語が好きで、大人たちから昔話、民話、伝説などを聞いて育った[6]明治維新で士族は家禄を失い困窮した。節子の稲垣家も没落したため、小学校を優秀な成績で卒業し上級学校への進学を希望したにもかかわらず、11歳から実父・小泉湊が興した機織会社で織子として働き家計を助けた[7]

節子が18歳の時に稲垣家は士族の前田為二を婿養子として迎えるが、為二は困窮に耐えられず一年足らずで出奔した[8]1890年(明治23年)、22歳の初めに正式に婚姻関係を解消して小泉家に復籍した[9]。小泉家も困窮しており、1891年(明治24年)2月頃一人住まいのハーンの家に住み込み女中として働き始めた[10][注 1]

結婚生活

同居して約半年を経た7月に、ハーンは同僚の英語教師西田千太郎[注 2]出雲大社近くの稲佐の浜を訪れ約半月滞在したが、ハーンは2日目には節子を呼びよせて仲よく一緒に行動しており「住み込み女中」という扱いではなかった。また8月11日にハーンが友人に出した手紙には節子との結婚を報じている[13]

1891年(明治24年)11月に八雲の転勤で夫婦は熊本県熊本市に転居。節子は八雲との意思疎通のために英語を勉強するが結局ものにならなかった[14]。しかし八雲が語る片言の日本語の「ヘルンさん言葉」を節子は正確に理解し、夫婦はお互いに意思疎通ができた[15]。熊本では長男の一雄が誕生した。

1894年(明治27年)、夫婦は兵庫県神戸市に引っ越した。八雲が熊本時代に執筆した『知られぬ日本の面影』が好評となったのを受けて、著述に専念するようになった[16]。これ以後の八雲の主要作品に節子が素材を提供している[17]。神戸在住中の1896年にハーンは兵庫県知事の承認を得て日本に帰化し、更に小泉家への「外国人入夫結婚」の願いが島根県知事に「承認」されて正式に「小泉八雲」となった[18]

1896年(明治29年)夫婦は東京府牛込区市谷へ転居する。東京でも節子は八雲に作品の素材を探して提供した。伝承だけでなく当時出版されていた書物を節子が読んで、その内容を「ヘルンさん言葉」で八雲に伝え、彼の執筆を支えた[19]。八雲は節子に対し「本から得た物語で」あっても本を見ずに節子自身の言葉で語る「語り部」であることを要求し、節子はそれに応えた[20]。夫婦は東京で二男一女をもうけるが、夫婦が西大久保に引っ越した1902年頃からハーンの健康が衰え始め[21]、節子が36歳の1904年(明治37年)9月26日に八雲が死去した。

八雲の著作に対する節子以外の協力者の存在

八雲の著作物の中には、元となった書籍の内容が小学校卒の節子には理解できないと推察されるものがあり、彼女以外にハーンに協力した人物の存在が考えられる。1899年頃八雲と親交のあったフェノロサの妻メアリーは八雲に仏教説話を物語ったと述べている[22]。また 長男の小泉一雄に「母にとっての影武者」と呼ばれた三成重敬[23][注 3]や、八雲の死の翌年に「人間、ラフカディオ・ハーン」を著した雨森信成などの協力者がいたが、両人とも八雲の著作への貢献については黙している[23]

晩年

小泉八雲は生前から遺言状に遺産は全て妻に譲ることを明言していた[25]おかげで、西大久保の家や書斎を生前のまま残すことができ、裕福な暮らしをしながら子供たちを育てた[26]1914年大正3年)に八雲との思い出をまとめた「思い出の記」が田辺隆次が著した「小泉八雲」に収められて出版された[27]。晩年は動脈硬化に苦しみ、1932年昭和7年)2月18日に64歳で死去した[28]。墓所は雑司ヶ谷霊園

小泉節子を取り扱った作品

脚注

注釈

  1. ^ 節子の話では1890年の12月に松江市に赴任してきたラフカディオ・ハーンに嫁いだ[11]
  2. ^ ハーンの友人であり、夫婦の松江在住中は二人の間の通訳も務めた[12]
  3. ^ 節子の遠縁で東京帝国大学資料編纂部に勤務していた[24]

出典

  1. ^ a b 長谷川洋二、p.11。
  2. ^ 長谷川洋二、p.13。
  3. ^ 長谷川洋二、pp.42-43。
  4. ^ 青空文庫 思い出の記
  5. ^ 長谷川洋二、pp.11-13。
  6. ^ 高瀬彰典、p.82。
  7. ^ 長谷川洋二、pp.85-86。
  8. ^ 長谷川洋二、pp.99-103。
  9. ^ 長谷川洋二、p.104
  10. ^ 高橋彰典、p.88。
  11. ^ 長谷川洋二、p.126。
  12. ^ 高瀬彰典、p.91。
  13. ^ 長谷川洋二、pp.146-150。
  14. ^ 長谷川洋二、p.161。
  15. ^ 長谷川洋二、pp.162-163。
  16. ^ 長谷川洋二、p.168。
  17. ^ 長谷川洋二、p.169。
  18. ^ 長谷川洋二、pp.183-184。
  19. ^ 長谷川洋二、pp.211-214。
  20. ^ 高橋彰典、p.96。
  21. ^ 高橋彰典、p.98。
  22. ^ 中井孝子、pp.68-69。
  23. ^ a b 中井孝子、p.71。
  24. ^ 中井孝子、p.66。
  25. ^ 長谷川洋二、pp.181-182。
  26. ^ 高橋彰典、pp.99-100。
  27. ^ 長谷川洋二、pp.274-275。
  28. ^ 高橋彰典、p.100。
  29. ^ 25年度後期の朝ドラ「ばけばけ」制作決定 モデルは小泉八雲の妻・小泉セツ”. シネマトゥデイ (2024年6月12日). 2024年6月19日閲覧。
  30. ^ 2025年度後期 連続テレビ小説「ばけばけ」制作決定!”. ドラマ情報. NHK (2024年6月12日). 2024年6月19日閲覧。

参考文献

  • 小泉節子・小泉一雄「祖母のこと、父のこと」『全訳小泉八雲全集』 12巻、恒文社、1967年、567-580頁。 
  • 高瀬彰典「小泉セツ」『国際社会で活躍した日本人』弘文堂、2019年、81-100頁。 
  • 長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』今井書店、2014年。 
  • 中井孝子「ハーンの妻セツの役割の再検討 -小泉一雄、雨森信成、三成重敬の証言を中心に-」『多元文化』第17号、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻、2017年2月、61-75頁。 

小泉セツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 14:17 UTC 版)

日本の面影」の記事における「小泉セツ」の解説

没落士族娘。家計一助として仕立て業をしていた。仕事松江中教頭西田千太郎の家に出入りしており、その縁でハーン給仕務め、のちに結婚するハーン求めに応じて民話怪談語って聞かせる

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