小林郷陰陽石図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 13:58 UTC 版)
「陰陽石 (小林市)」の記事における「小林郷陰陽石図」の解説
慶応3年(1867年)、薩摩藩に仕えた木脇啓四郎が画を描き、関盛長が文を記した『日向国諸県郡小林郷東方村陰陽石図』が刷られている。文言は以下の通り。 我殿の管轄(しろし)めす日向国諸県郡小林郷東方村の岩瀬河の川中に奇(くす)しき石あり。女男の隠処の形にて並び立るさまやがて図の如し。さるは天地(あめつち)の未成(はじめ)の時に成坐(なりませ)る二柱の産霊の大神は女男の元つ大神にして御霊代なむ。やがて玄牡玄牝の形なる事、神典の註釈ともにここら見へて既(はや)く下総の国人宮負定雄かそをひと川に集めて桜木に上せて世に行はる。されば其は悉く唯大形のかたちこそ似通ひつれ此神石にくらぶれば一ツ日にいふでき限りにはあらずかし。さて、此陽石の根の方には萓薄抔生茂りてさなから陰毛の如く、又亀頭口(すずくち)と覚しき処よりは彼万物感陽気とかいへる春の頃には必らず水垂り滴落ちて恰も精液の如く、はた陰石の方はとことはに水したたり落ちてともに心ありげにみゆるなどあやしとも奇しともいへば更にて正しく神の造り給へる物とこそいふべかりけれ。抑小林の郷はしもやがていにしへの夷守(ひなもり)〔原文割注:景行天皇紀十八年春三月天皇将向京以巡狩筑紫国始到夷守是時於岩瀬河人衆聚集於是天皇遙是詔左右曰其集者向人也者賊乎及箕遣兄夷守弟守二人令観之弟夷守還来而諮之曰諸県君泉姫依献大御食而其族会之と見え又延喜式の兵部諸国器丈の条に上略日向国云々亜椰野後夷守真研云々とみえて国史式等にも載せられて名たかき処なりけり〕のさとにてかの天下に二ツなき二上の槵触(くしふる)の高千穂の麓なればかかる尊き神石のあらむ事も自然なる理とやいふべからむ。今般板に彫りて世におほやけになし給へるにつけてそのよくいささか記し侍るになむ。かくいふは 薩摩国殿人 関盛長 慶応三年丁卯十二月
※この「小林郷陰陽石図」の解説は、「陰陽石 (小林市)」の解説の一部です。
「小林郷陰陽石図」を含む「陰陽石 (小林市)」の記事については、「陰陽石 (小林市)」の概要を参照ください。
- 小林郷陰陽石図のページへのリンク