対秀策三十番碁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/10 15:38 UTC 版)
秀策との初手合は、天保13年(1842年)秀策14歳二段、雄蔵36歳六段の時の二子局で、雄蔵勝ちだった。この後秀策とは互先になるまで50局ほどを打っている。 あるとき、碁好きの旗本赤井五郎作の家に雄蔵、算知、仙得、松和の四傑と服部一が集まり、秀策の話題となって現在かなうものはいないであろうと口々に言うのを、それまで秀策に互先で2勝2敗2打ち掛けだった雄蔵が同調できないと発言した。そこで五郎作が発起人となり、嘉永6年(1853年)に三十番碁が行われた。17局までで6勝10敗1ジゴとなり先相先に打ち込まれ、さらにここから1勝3敗1ジゴと追い込まれるが、雄蔵は絶妙の打ち回しで白番ジゴとし、この第23局で三十番碁は終了となった。 秀策はこの年に七段昇段し翌年昇段披露会を開き、雄蔵はその席上で松和と対局している(打ち掛け)。この後、越後遊歴に出て、安政3年(1856年)に高田の旅宿梶屋敷で客死、天保四傑では最も早く没した。 三十番碁の第23局、1853年(嘉永6年)11月5、28日 本因坊秀策(先番) - (先相先)太田雄蔵 左辺で競り合いが始まり、白1(62手目)から3と軽く進出。右辺白5と消して、双方に地が少なく細碁模様、中央白も9まで薄いが黒から厳しい手はない。白はその後も戦いながら薄みをシノギきり、終盤に左上でコウ材有利を見越して白A〜Eとコウを仕掛け、ついにジゴとした。黒に悪手らしい手は無いにも関わらずジゴとしたことで、雄蔵の代表作とされ、秀策は「恐らくは太田氏畢生の傑局とならん」と評している。 また秀和とは互先から始まり、その後雄蔵先相先と定先を往復し、約140局が残されている。
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