宮ノ陣神社とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 宮ノ陣神社の意味・解説 

宮ノ陣神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/04 04:13 UTC 版)

宮ノ陣神社
所在地 福岡県久留米市宮ノ陣5丁目12-1
位置 北緯33度19分44.900秒 東経130度32分02.421秒 / 北緯33.32913889度 東経130.53400583度 / 33.32913889; 130.53400583 (宮ノ陣神社)座標: 北緯33度19分44.900秒 東経130度32分02.421秒 / 北緯33.32913889度 東経130.53400583度 / 33.32913889; 130.53400583 (宮ノ陣神社)
主祭神 良成親王懐良親王[1]
社格 村社(神饌幣帛料供進社)
例祭 10月7日10月8日[2]
地図
宮ノ陣神社
テンプレートを表示

宮ノ陣神社(みやのじんじんじゃ)は、福岡県久留米市宮ノ陣にある神社。旧社格は村社(神饌幣帛料供進社)。南朝の二人の皇子(後村上天皇の皇子・良成親王後醍醐天皇の皇子・懐良親王)を祭神とする。

歴史

前史「将軍梅」

『日本写真帖』(明治45年)より「将軍梅(三井郡宮ノ陣村)」。左が「将軍梅紀念之碑」

宮ノ陣は、南北朝時代正平14年(1359年)8月、征西大将軍・懐良親王筑後川の戦いに際して本陣を置いた地とされる。懐良親王はこの時、陣営に阿弥陀如来を安置し、その手向けとして一株の紅梅をお手植えしたと伝えられる[3]

この梅が後に「将軍梅(しょうぐんばい)」と呼ばれるようになり、江戸時代には楠木氏に連なるとされる庄屋が巡らせた木の柵で代々保護された[2]

王政復古後の慶応4年(1868年)、最後の久留米藩主・有馬頼咸が囲いを石造りの玉垣に改めさせた[2]。伝承によれば、公卿の四条隆謌から将軍梅を大切に保護するように命じられたことに起因するという。

有馬頼咸公宮中ニ伺候ノ際四条公ヨリ「卿ノ領内ニ征西将軍御手植ノ将軍梅尚存ズル由、定メテ大切ニ保護サレ玉ハン」ト尋ネラレ藩公ハ勢ヒ「大切ニ保護罷在ル」旨答ヘラレシガ退出後急使ヲ久留米ニ飛バシ昼夜兼行ニテ石ノ玉垣ヲ作レリ夜業シテ工ヲ急ゲルコト誠ニ遽シカリシト代々云ヒ伝ユルマヽ記ス — 楠正人『宮地邑物語』(筑後郷土研究会、昭和12年)付録「明治廿一年頃(将軍社建立直前)宮之地図」より。

明治6年(1873年)、将軍梅付近に懐良親王を祭神とする神社を造営する計画が持ち上がった[4]。ところが翌年に佐賀の乱が勃発し、その後も水害風災が相次いだために頓挫した[4]

神社創建

明治18年(1885年)1月27日、合川村宮盾の地に、良成親王を祭神とする横一間入一間の小社が創建された[4]。しかしその後、この祠は暴風により倒壊したので、良成親王と縁故ある懐良親王の遺愛の梅の傍らに遷されることになった[4]

明治21年(1888年)11月に横二間入一間半の社殿が造営された[4]。ところが翌22年(1889年)、大洪水に見舞われて、社殿以外の境内は田畑に復した[5]。明治25、26年頃から再興が図られたが、明治27年(1894年)の日清戦争勃発により中止された[5]

明治30年代に入ると、小松宮彰仁親王、次いで皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の訪問があった(#皇室の訪問歴)。これを受けて社殿改築、拝殿増築の機運が高まった[5]

明治35年(1902年)11月に増改築された。

【将軍梅】香をとめて昔のあとを偲びけり いろもこぞめの梅の春風[3] — 社号を揮毫した伯爵東久世通禧和歌

明治44年(1911年)9月、懐良親王を合祀した[6][7]

大正3年(1914年)、将軍梅の繁茂に伴い、有馬伯爵家に寄進を請願して玉垣を増設した[8]

大正4年(1915年)6月24日、神饌幣帛料供進社に指定された[5]

昭和63年(1988年)2月24日、将軍梅が「宮ノ陣の将軍梅」として久留米市の天然記念物に指定された[9]

皇室の訪問歴

小松宮彰仁親王の揮毫による「将軍梅紀念之碑」

文化財・社宝

  • 「宮ノ陣の将軍梅」(久留米市天然記念物)
  • 「皇太子殿下(大正天皇)御使用之鍬」[2]
  • 「久邇宮殿下御使用鍬」[2]
  • 「朝香宮殿下御使用鍬」[2]
  • 「御神鏡」一面[2]

梅の名所として

境内には、久留米市最大級の梅である将軍梅を筆頭に、約60本の梅が植えられており、花の見頃には多くの見物人で賑わいをみせてきた。丸山敏雄は大正13年(1924年)2月、将軍梅を見物しようと訪ねたことへの後悔の念を『筑紫野雑記』に綴っている。

神社の前には沢山な店が出て、水天宮の祭を思はせる。神前には礼拝する余地さへないほどの人だ。(中略)永正(※原文ママ)の昔、武の鑑、忠の誉を永遠にかたる将軍梅も、今は飲食店の看板につかはれ、物もらひのをどりの背景をなしてをる。こゝに至つて何れに敬神の念が起り、往古追情の真心がわいて来よう。私は今日こゝに来た事を後悔した。 — 『丸山敏雄全集 第20巻』(倫理研究所、1973年)138・139頁。

近年は「将軍梅 梅まつり」と題するイベントとして3月下旬に開催されている。

脚注

  1. ^ 福岡県神社誌 中巻 1945, p. 176.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 福岡県神社誌 中巻 1945, p. 179.
  3. ^ a b 筑後に於ける両征西大将軍宮 1933, p. 25.
  4. ^ a b c d e 福岡県神社誌 中巻 1945, p. 177.
  5. ^ a b c d 福岡県神社誌 中巻 1945, p. 178.
  6. ^ 懐良親王と三井郡 1923, p. 149.
  7. ^ 筑後に於ける両征西大将軍宮 1933, p. 24.
  8. ^ 祭神懐良親王良成親王宮陣神社縁起 1917, p. 7.
  9. ^ 久留米市:郷土の文化財(第6版)69番から86番まで
  10. ^ 郷土資料 修身之部 1935, p. 9.
  11. ^ 郷土資料 修身之部 1935, p. 18.
  12. ^ 郷土資料 修身之部 1935, p. 21.
  13. ^ 鎌倉宮公式X(旧Twitter)より、"懐良親王をお祀りする八代宮に分けられ、さらに八代宮から「将軍宮」兄弟の誼で鎌倉宮に分けられました。"。

参考文献

  • 楠喜蔵『祭神懐良親王良成親王宮陣神社縁起 : 附・筑後川戦』宮陣神社社務所、1917年。 
  • 三井郡史蹟調査委員『懐良親王と三井郡』福岡県三井郡、1923年。 
  • 宮陣神社社務所『筑後に於ける両征西大将軍宮』1933年。 
  • 久留米初等教員会『郷土資料 修身之部』1935年。 
  • 大日本神祇会福岡県支部『福岡県神社誌 中巻』1945年。 

関連項目

  • 遍万寺 - 宮ノ陣神社に隣接。良成親王の薨去を悲しんだ菊池氏一門の菊池武邦が、剃髪して「正西」と名を改め、将軍梅の傍らに草庵を結んだのが起源とされる。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  宮ノ陣神社のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宮ノ陣神社」の関連用語

宮ノ陣神社のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宮ノ陣神社のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの宮ノ陣神社 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS