実業家としての顔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 07:13 UTC 版)
吟香は実業家としても成功している。慶応3年(1867年)、吟香は回漕業者をはじめる。江戸松坂屋彌兵衛と横浜鹿島屋亀吉の合資であった。毎日江戸横浜間を往復し、とても早かった。購入した汽船は稲川丸といい、よく働いたが、これが築地海岸にて爆発沈没し、廃業した。吟香の次の事業は『もしほ草』であるが、これは上記を参照のこと。『もしほ草』と同時期、横浜に骨董玩具店をひらいたり、函館を視察しノウハウを得、1871年(明治4年)江戸で氷室商会を創設して氷を販売しもした。 明治10年(1877年)東京日日をやめた吟香は、本業を目薬「精錡水」の製造・販売とし、東京銀座2丁目1番地に楽善堂を設立した。吟香は新聞広告を活用し、またまた世間の評判を呼び、持てはやされた。吟香が人生で一番金を得たのが、この仕事である。明治11年(1878年)、吟香は上海に渡航し、支店をつくった。上海は、吟香が『和英語林集成』を印刷した、思い出の地である。
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