実戦、戦場に参加
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1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件を機に満州事変が起きると、高山は持論を実戦で試せる宿願のチャンスと思い、勤務先の海軍機関学校や要港部へ戦線への従軍願いを出すも、不許可となる。 その後、1937年(昭和12年)8月9日に第二次上海事変が起きた際も、従軍許可の願いを出し、いったんは許可されたが、後日取り消しとなる。その後ようやく末次信正海軍大将の内命を受けて出発し、当時南京攻略戦に向かっていた第16師団を追った。 同年12月10日、南京郊外において同師団に合流し、師団長の中島今朝吾中将と会合する。13日正午に同中将より捕虜7名の試斬を依頼され、見事に首を刎ねた。12月29日には、白兵抜刀術の草案を南京城内にあった蔣介石の官邸において執筆し、翌1938年(昭和13年)2月に、近代戦用「白兵抜刀術」の草案を完成させた。 その後、1938年の春秋作戦(5月・徐州作戦、10月・武漢三鎮作戦)に従軍している。
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