完全製作の挫折そして本人と息子による部分製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/13 15:42 UTC 版)
「解析機関」の記事における「完全製作の挫折そして本人と息子による部分製作」の解説
バベッジは晩年になって解析機関の単純化したバージョンの製作を思い立ち、1871年に亡くなる直前にその一部を組み立てた。しかし、1878年、英国科学振興協会の委員会に、解析機関の開発は政府の財政を圧迫するという理由で製造しないことを進言されるという憂き目を見た。 解析機関の完全開発は、資金枯渇そして技師とのトラブルにより実現できなかったのである。しかしそれらの問題が無くても、階差機関についてと同様、後世に発達した、複雑な機械の製作を管理する工学的手法がまだ無かったことは見落とせない。 1910年、バベッジの末の息子ヘンリー・バベッジはmill(演算装置)の一部とプリンター一式を製作した。そして、これを使って円周率の倍数の計算を行った(ただし、結果は間違っていた)。これは父親の発明した解析機関のごく一部を使ったもので、プログラマブルでなく、記憶領域もなかった。 ヘンリー・バベッジは、小規模な記憶装置を備えた完全な解析機関の製作も考えていた。25桁の数値を20個操作できるものを想定しており、完成すればそれでも十分印象的なものとなっただろう。1888年、ヘンリー・バベッジは「カード(プログラム)枚数と時間の問題にすぎない。数学者が解析機関で目的を果たすために枚数が要るなら使えばよいだけだ」と書いている(62.)。
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