安永疑獄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:32 UTC 版)
深刻な財政状態の悪化は藩内の不安感を増大させ、その矛先は奉行衆へと向けられることとなった。葛西清胤、川島行信、遠藤善信、菅野専伴、河田茂頼らが、翌安永2年(1773年)1月に岩谷堂伊達村富とその弟の鮎貝盛辰に対し、奉行衆の怠慢を糾して人事を一新すべきであると訴え、この計画に賛同した村富は登米伊達村良と亘理伊達村好に計画を打ち明けて助力を要請し、村良には拒否されたが、村好は参加を承諾した。 こうして3月5日早朝、村富、村好は奉行職5人(松岡時義・芝多信憲・大内義門・後藤寿康・大町朗頼)を仙台城下の亘理伊達家屋敷に呼び出して尋問し、同日夜に奉行衆を屋敷内に軟禁したまま登城して重村に面会を求め、翌6日、面会を許された両名は尋問の内容を重村に報告し、奉行衆の更迭を言上した。重村はこの訴えを認め、8日に松岡を除く4人の奉行は罷免の上蟄居を命じられ、代わって遠藤と但木顕行・石田元直が奉行職に就任し、重村は村富・村好の行為を嘉賞した。 ところが、事件の知らせを聞いた村良が12日に仙台に上って重村に面会したことで事態は一転する。村良は、村富・村好らが藩主の許可を得ずに奉行を査問し、これを私邸に軟禁したことは不当であるとして、事件を再審理するよう求めた。重村はこれを認め、17日から萱場氏章と荒井盛従に命じて取調べさせた結果、今度は逆に、奉行衆の査問は葛西・川島らが自身の昇進を狙って村富を唆して行わせたものであると結論付けられ、閏3月11日に主犯とされた葛西・川島の両名が改易されたほか、鮎貝は蟄居、遠藤・菅野は閉門、河田は田代島への流罪に処され、村富と村好は共に謹慎の後、同年10月に隠居を命じられた(安永疑獄)。
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