守護大名家への介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 05:33 UTC 版)
寛正2年(1461年)、義政は斯波氏の家督を交替させて松王丸を廃立、遠縁で渋川氏出身の義廉を当主に据えた。この意図は義廉の父渋川義鏡が幕府によって新たな鎌倉公方として関東に送られた義政の異母兄の堀越公方足利政知の執事であり、寛正元年の駿河守護今川範忠の帰国で戦力が減った影響から義鏡を斯波氏当主の父として斯波軍を動員できるようにする狙いがあった。だが、寛正3年(1462年)に義鏡が関東で幕府方として古河公方と対峙していた扇谷上杉家と相模の権益を巡って対立、失脚したためその意義が薄れていた。 寛正4年(1463年)、母の日野重子の死去で大赦を行い、義就と義敏を赦免した。更に寛正6年(1465年)10月、勝元の要請で伊予の河野通春討伐に逆らい通春を支援した大内政弘に討伐命令を下したが、密かに政弘を支援した上、政弘の元にいた義敏に貞親と真蘂を通して上洛を命じ、12月29日に上洛した義敏は翌30日に実父の斯波持種とともに義政と対面(『蔭涼軒日録』、『大乗院寺社雑事記』は対面を29日のこととする)して名実とともに赦免をされることになるが、これを知った義廉が義政に迫って30日付で義廉が引き続き領国を支配し、義敏の被官が勝手な行動をすることを禁じる幕府の奉行人奉書が出された。奉書を受けた興福寺(越前国内に荘園を持つ)の尋尊は義政の行動について「上意の儀太だ其意を得ず」(『大乗院寺社雑事記』寛正6年12月29日・30日条)と困惑を表明している。 翌文正元年(1466年)7月23日に家督を義廉から義敏に交替、7月30日に政弘も赦免した。一連の行動の真意は、幕府に逆らい一旦敵となった3人を赦免することで勝元と宗全の大名連合に対抗、幕府派に取り込む意図があった。
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