守護大名の復権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:07 UTC 版)
山名持豊は、満祐を討ち果たしたことによって播磨守護職を与えられ、備前守護は山名教之、美作守護は山名教清が任ぜられた。また摂津の中島郡と播磨の明石・加東・美嚢三郡は御料所となり、中島郡は細川持賢、播磨三郡は赤松満政が分郡守護となった。しかし持豊は軍功として播磨一国支配を要求し、文安元年(1444年)1月に満政は失脚して三郡も持豊の支配下となった。満政はこれを不服として播磨で挙兵したが、文安2年(1445年)に殺害された。足利義満時代の明徳の乱で敗れて低下した山名氏の勢力は大きく拡大し、細川氏と力を競うようになる。 義勝・足利義政と幼少の将軍が続いたこともあり、義政成人までの幕政は守護大名の合議によって行われた。8月、討伐軍が西国へ出征している隙を突いて嘉吉の土一揆が発生、要求を認めて徳政令を発布したこともその一環といえる。また、持之は6月25日の評定で義教に処罰された人々の赦免を決定したが、義教に更迭された畠山持国が上洛し、逆に義教に当主とされた持国の弟持永が逃亡して殺され、持之の管領辞任後に持国が管領に就任した。持国は自分と同じく義教に処罰された人々の復権を図り、反発した細川氏と対立、大名家のお家騒動を引き起こしていった。
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