宇田らの研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 01:47 UTC 版)
宇田は八木・宇田アンテナの基本原理の発明後はその実用化を目指し、国内の近辺各地に自ら出向いて意欲的な実験を続けた。例えば、1929年には八木・宇田アンテナを使用したUHFの送受信機により、仙台-大鷹森(松島)間(約20km)での通信に成功。翌年にはベルギーのリエージュで開催された産業科学万国博覧会(英語版)に出品された。1932年5月に、宇田は超短波長電波の研究が認められて、帝国学士院より昭和7年度(1932年度)の「大阪毎日新聞・東京日日新聞寄附 東宮御成婚記念賞」を受賞した。同年7月には酒田・飛島(約40kmの離島)間での超短波通信に成功し、1933年には逓信省が、日本国初の超短波公衆電話回線を酒田・飛島間に開設した。この業績に対し、飛島の関係者の推薦により、宇田は第1回河北文化賞を受賞した。 通信だけでなく電磁エネルギーの無線伝送も試みられている。1926年2月に八木と宇田は、波投射器を配置した指向性アンテナ(英語: Wave Projector Directional Antenna)に関する最初の報告書を公表した。八木はなんとか概念の証拠を実証したが、技術的問題として従来の技術よりもよりわずらわしいことが判明した。その後、1954年にはこれまでの理論的な研究をまとめた英文共著書 YAGI-UDA ANTENNAが出版され、設計理論を確立した。
※この「宇田らの研究」の解説は、「八木・宇田アンテナ」の解説の一部です。
「宇田らの研究」を含む「八木・宇田アンテナ」の記事については、「八木・宇田アンテナ」の概要を参照ください。
- 宇田らの研究のページへのリンク