学問・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 23:51 UTC 版)
「坂本太郎 (歴史学者)」の記事における「学問・評価」の解説
坂本の古代史研究は、『日本書紀』などの六国史や律令を根本史料とし、それを科学的かつ実証的方法論のもとで進められた。とくに彼の学位論文である「大化改新の研究」は、先行する津田左右吉の「大化改新の研究」(『史苑』5-3~6-5、1930年 - 1931年)を批判するものであった。坂本は、津田の『日本書紀』の記載についての史料批判については一定の理解は示すものの、津田が『日本書紀』の記載を否定的にとらえるのに対して、坂本はその記載を厳密に史料批判しつつも、とくに大きな矛盾を生じないものについては容認してきた。ただ、坂本の考えた大化改新の位置づけは、明治以降に形成された大化改新像そのものであり、原秀三郎から、近代天皇制イデオロギーの立場に立つものとして批判された。 また、六国史中心の古代史研究について、アカデミズム守旧派の中心人物であるとの批判を受けた。大化改新の詔の「郡」の字は「評」でなかったとする、いわゆる「郡評論争」において、坂本は論文「大化改新詔の信憑性の問題について」(『歴史地理』83-1、1952年)で、井上光貞の「評」説に反駁したが、藤原京より「評」字の木簡が出土されたことによって、井上の説が正しいということが証明された。のち、坂本は自叙伝(『古代史の道-考証史学六十年-』)のなかで、「ただ『日本書紀』がどうして郡字に限って評字を使わないで、後世の用字を原則としたかという疑問を私は未だ捨て去ることができない」(著作集12巻、137ページ)と述べている。 坂本は自らを歴史家と呼ばれることをよしとはせず、史料の取扱人でよいとした。
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