嬴異人を養子に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 19:03 UTC 版)
衛の商人、呂不韋が華陽夫人の弟である陽泉君に接近し、入秦すると華陽夫人との面会を果たした。 呂不韋は安国君と華陽夫人の間に嗣子となる子がいない事から、将来安国君からの寵愛が衰える時が来た場合の不安を説き、安国君が次の秦王に即位した時の太子候補には他の夫人が産んだ庶子の子傒ら、20人以上の公子たちがいる中で、今は安国君の寵愛を失った夏姫が産み、趙の人質となって、呂不韋が後見を務める嬴異人が賢明であり、遠き地より華陽夫人の事を実の母のように思い慕っていると、吹き込んで異人を養子に迎え、太子に推すことを夫人に勧めた。 華陽夫人は呂不韋の言葉を容れ、安国君の名を刻んだ割符を用意して異人を嗣子として迎える事を約束した。 昭襄王50年(紀元前257年)、王齕が秦軍を率いて趙の首都邯鄲(現在の河北省邯鄲市)を攻囲し、趙国は異人を殺そうとしたが、呂不韋は賄賂を使って異人を秦に逃す事に成功した。異人の妻の趙姫とその子の嬴政は邯鄲に取り残され危機的状況に置かれたが何とか生き延びて、数年後に秦に入る事が出来た。 秦に無事帰り着いた異人は呂不韋の提案で華陽夫人の故国である楚の衣装を着て、初めて華陽夫人と面会した。華陽夫人はその姿を見て大喜びで異人を正式に養子とした。異人は華陽夫人の故国に因んで名を子楚と改め、ますます夫人に気に入られた。
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