姫路大空襲とは? わかりやすく解説

姫路空襲

(姫路大空襲 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/17 18:07 UTC 版)

姫路空襲(ひめじくうしゅう)とは、大東亜戦争末期の1945年6月22日7月3日深夜から7月4日未明にかけて兵庫県姫路市が受けた2度の空襲のこと。

空襲以前

下記の空襲以前、1944年12月より姫路周辺にB-29爆撃機が飛来するようになり、3ないし4日に1回の割合で空襲警報が発令されている[1]。さらに1945年3月19日には野里香呂村犬飼(現・姫路市香寺町犬飼)とでそれぞれ播但線の列車が機銃射撃を受けている[2][3]

空襲から守るために黒い網を掛けられた姫路城

6月22日の姫路空襲

京口駅前ロータリーにある空爆の碑

『姫路市史』では「六月空襲」、『姫路空爆の記録』では「川西空襲」と呼称している。

1945年6月22日9時50分ごろ、B-29約60機が飛来し、播但線京口駅東北にあった川西航空機姫路製作所を中心に約1時間精密爆撃を続けた。爆撃の目的地である製作所は全壊したほか、周辺の山陽皮革や日本フェルトの各工場、県立姫路高等女学校[4]、民家や道路、上下水道なども甚大な被害を受けた。製作所にいた徴用や学徒動員、社員など多くの従業員や周辺住民を含めた人的被害は、死者341人、被災者10220人[5][6]

アメリカ軍の作戦任務報告書による6月22日の爆撃データ

  • ミッション217
  • 爆撃日時:1945年6月22日午前9時46分から同10時37分(日本時間)
  • B-29爆撃機数:52機

7月3日深夜の姫路空襲

姫路空襲(1945年(昭和20年))から2年後、1947年(昭和22年)11月1日の兵庫県姫路市中心部。右側(東側)の空き地は1945年6月22日の爆撃で壊滅した川西航空機姫路工場跡地。姫路市街地は1945年7月3日の空襲からの復興途上。画面中央右寄りに縦(南北方向)に空襲を免れた建物の屋根が濃く見える。

『姫路市史』では「七月空襲」、『姫路空爆の記録』では「焼夷空襲」と呼称している。

1945年7月3日16時23分(日本時間)、マリアナ諸島グアムサイパンテニアンの3島4基地から、徳島高松高知、そして姫路への爆撃のため501機のB-29が出撃し、硫黄島を経由して、それぞれの都市へと向かった。同日深夜11時50分から翌未明1時29分にかけて[7]、姫路城南東を中心照準点とする半径4,000フィート(約1,200m)が目標とされ[8]、姫路市街地全域に焼夷弾が降り注いだ。火の手は姫路駅前から上がり、順次周辺へと拡大、町は火の海と化し、特に内町と呼ばれた市街中心部(現:姫路市立白鷺小中学校区、姫路市立城東小学校区西部)はほぼ壊滅した。内町の周囲や工場が多数置かれていた姫路駅南側、さらにこれらから離れた地域も含め、総戸数・総人口の各約40%が被災した。当時は飾磨市であった飾磨でも一部が被災した[9]

死者173人、重軽傷者160人余、全焼家屋約1万300戸、被災者45182人[10]

姫路城も爆撃対象から外されることは無かったものの、天守に命中した焼夷弾が発火せずに焼失を免れ、その姿に勇気づけられた被災者もいたようである[11]

当時姫路駅南西の南畝町に居住し、写真などの郷土資料を収集した「高橋秀吉コレクション」(現在は兵庫県立歴史博物館収蔵)を残した郷土史研究家・高橋秀吉[12]は以下のように記す。

その夜遂に我が姫路も焼かれる空襲となった。(中略)(引用者注:勤め先の)寮に着く前に投弾のひびきひどく、市街の東方、市川辺に火の手が上がる。遂に来た。姫路の最後、我が家も本当におさらばとなった。(中略) 見かえると次々と弾は市中に的確となり、落下の度に気味悪い雨のドシャ降りのような音をたて、爆発すればぱっと光って、ヒルよりも明るくなる。(中略)市の中心部はすでに火の海。(中略)見上ぐる空には機影もハッキリ見える。(中略)(引用者注:焼夷弾の子弾が)すぐ目の前にプスッと落ちてパアッと火の花が四方に飛び、私の頭上をとびこえる。(中略)そのうちに、だんだん爆音も遠ざかり、やっと(引用者注:空襲警報が)解除となり、(引用者注:防空壕から)はい出てみると、姫路の空は家々のもえ上がる炎が映って、気味わるいほどである。とうとう姫路も焼かれてしまった。
高橋秀吉、『姫路の罹災』昭和20年7月3日の日記より、[13]

アメリカ軍の作戦任務報告書による7月3日の爆撃データ

  • ミッション249
  • 爆撃日時:1945年7月3日午後11時50分から翌日午前1時29分(日本時間)
  • 爆撃部隊:アメリカ陸軍航空軍、第21爆撃集団所属、第313爆撃団
  • B-29爆撃機数:106機
  • 投下した焼夷弾の種類、量
    • E46 546.6米トン
    • AN-M47A2 220.5米トン
    • 計 767.1米トン


関連項目

脚注

  1. ^ 姫路市史5巻下 2007, p. 807.
  2. ^ 姫路空爆の記録 第2集 1989, p. 115.
  3. ^ 姫路市史5巻下 2007, p. 808.
  4. ^ 現・兵庫県立姫路東高等学校、当時は現・姫路市立東光中学校に相当する位置に所在
  5. ^ 姫路市役所 1960, p. 11.
  6. ^ 姫路市史5巻下 2006, p. 808-814.
  7. ^ 姫路市 2002, p. 814.
  8. ^ 姫路市 2002, p. 817.
  9. ^ 姫路市 2016, p. 2-4.
  10. ^ 姫路市役所 1960, p. 11-12.
  11. ^ 中元 2001, p. 304-305.
  12. ^ コレクション紹介”. 兵庫県立歴史博物館. 2024年2月19日閲覧。
  13. ^ 高橋 1973, p. 83-85.

参考文献

外部リンク


姫路大空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 21:26 UTC 版)

姫路空襲」の記事における「姫路大空襲」の解説

1945年7月3日16時23分(日本時間)、マリアナ諸島のグアム・サイパン・テニアンの3島4基地から、徳島高松高知、そして姫路への爆撃のため501機のB-29出撃し、硫黄島経由してそれぞれの都市へと向かった同日深夜から翌未明にかけての約2時間姫路市街地全域焼夷弾降り注いだ火の手姫路駅前から上がり順次周辺へと拡大、町は火の海化し、総戸数40%が焼失飾磨でも一部被災した死者173人、重軽傷者160人余、全焼家屋1万300戸、被災者45182人。 姫路城天守命中した焼夷弾発火せずに焼失免れ、その姿に勇気づけられた被災者もいたようである。

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