姫路空襲
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姫路空襲(ひめじくうしゅう)とは、大東亜戦争末期の1945年6月22日と7月3日深夜から7月4日未明にかけて兵庫県姫路市が受けた2度の空襲のこと。
空襲以前
下記の空襲以前、1944年12月より姫路周辺にB-29爆撃機が飛来するようになり、3ないし4日に1回の割合で空襲警報が発令されている[1]。さらに1945年3月19日には野里と香呂村犬飼(現・姫路市香寺町犬飼)とでそれぞれ播但線の列車が機銃射撃を受けている[2][3]。

6月22日の姫路空襲
『姫路市史』では「六月空襲」、『姫路空爆の記録』では「川西空襲」と呼称している。
1945年6月22日9時50分ごろ、B-29約60機が飛来し、播但線京口駅東北にあった川西航空機姫路製作所を中心に約1時間精密爆撃を続けた。爆撃の目的地である製作所は全壊したほか、周辺の山陽皮革や日本フェルトの各工場、県立姫路高等女学校[4]、民家や道路、上下水道なども甚大な被害を受けた。製作所にいた徴用や学徒動員、社員など多くの従業員や周辺住民を含めた人的被害は、死者341人、被災者10220人[5][6]。
アメリカ軍の作戦任務報告書による6月22日の爆撃データ
- ミッション217
- 爆撃日時:1945年6月22日午前9時46分から同10時37分(日本時間)
- B-29爆撃機数:52機
7月3日深夜の姫路空襲

『姫路市史』では「七月空襲」、『姫路空爆の記録』では「焼夷空襲」と呼称している。
1945年7月3日16時23分(日本時間)、マリアナ諸島のグアム・サイパン・テニアンの3島4基地から、徳島・高松・高知、そして姫路への爆撃のため501機のB-29が出撃し、硫黄島を経由して、それぞれの都市へと向かった。同日深夜11時50分から翌未明1時29分にかけて[7]、姫路城南東を中心照準点とする半径4,000フィート(約1,200m)が目標とされ[8]、姫路市街地全域に焼夷弾が降り注いだ。火の手は姫路駅前から上がり、順次周辺へと拡大、町は火の海と化し、特に内町と呼ばれた市街中心部(現:姫路市立白鷺小中学校区、姫路市立城東小学校区西部)はほぼ壊滅した。内町の周囲や工場が多数置かれていた姫路駅南側、さらにこれらから離れた地域も含め、総戸数・総人口の各約40%が被災した。当時は飾磨市であった飾磨でも一部が被災した[9]。
死者173人、重軽傷者160人余、全焼家屋約1万300戸、被災者45182人[10]。
姫路城も爆撃対象から外されることは無かったものの、天守に命中した焼夷弾が発火せずに焼失を免れ、その姿に勇気づけられた被災者もいたようである[11]。
当時姫路駅南西の南畝町に居住し、写真などの郷土資料を収集した「高橋秀吉コレクション」(現在は兵庫県立歴史博物館収蔵)を残した郷土史研究家・高橋秀吉[12]は以下のように記す。
その夜遂に我が姫路も焼かれる空襲となった。(中略)(引用者注:勤め先の)寮に着く前に投弾のひびきひどく、市街の東方、市川辺に火の手が上がる。遂に来た。姫路の最後、我が家も本当におさらばとなった。(中略) 見かえると次々と弾は市中に的確となり、落下の度に気味悪い雨のドシャ降りのような音をたて、爆発すればぱっと光って、ヒルよりも明るくなる。(中略)市の中心部はすでに火の海。(中略)見上ぐる空には機影もハッキリ見える。(中略)(引用者注:焼夷弾の子弾が)すぐ目の前にプスッと落ちてパアッと火の花が四方に飛び、私の頭上をとびこえる。(中略)そのうちに、だんだん爆音も遠ざかり、やっと(引用者注:空襲警報が)解除となり、(引用者注:防空壕から)はい出てみると、姫路の空は家々のもえ上がる炎が映って、気味わるいほどである。とうとう姫路も焼かれてしまった。—高橋秀吉、『姫路の罹災』昭和20年7月3日の日記より、[13]
アメリカ軍の作戦任務報告書による7月3日の爆撃データ
- ミッション249
- 爆撃日時:1945年7月3日午後11時50分から翌日午前1時29分(日本時間)
- 爆撃部隊:アメリカ陸軍航空軍、第21爆撃集団所属、第313爆撃団
- B-29爆撃機数:106機
- 投下した焼夷弾の種類、量
- E46 546.6米トン
- AN-M47A2 220.5米トン
- 計 767.1米トン
関連項目
脚注
- ^ 姫路市史5巻下 2007, p. 807.
- ^ 姫路空爆の記録 第2集 1989, p. 115.
- ^ 姫路市史5巻下 2007, p. 808.
- ^ 現・兵庫県立姫路東高等学校、当時は現・姫路市立東光中学校に相当する位置に所在
- ^ 姫路市役所 1960, p. 11.
- ^ 姫路市史5巻下 2006, p. 808-814.
- ^ 姫路市 2002, p. 814.
- ^ 姫路市 2002, p. 817.
- ^ 姫路市 2016, p. 2-4.
- ^ 姫路市役所 1960, p. 11-12.
- ^ 中元 2001, p. 304-305.
- ^ “コレクション紹介”. 兵庫県立歴史博物館. 2024年2月19日閲覧。
- ^ 高橋 1973, p. 83-85.
参考文献
- 姫路市建設局区画整理課 編『復興の歩み』姫路市役所、1960年9月、11-12頁 。
- 高橋, 秀吉『姫路の罹災-その前後の日記』姫路の罹災刊行会、1973年。doi:10.11501/12399044 。
- 中元, 孝迪『姫路城 永遠の天守閣』神戸新聞総合出版センター、2001年5月30日、299-306頁。
- 『姫路市史 第五巻下 本編 近現代2』姫路市、2002年、806-826頁。
- 『姫路市史 第六巻 本編 近現代3』姫路市、2016年、2-4頁。
- 姫路空襲を語りつぐ会 編『姫路空爆の記録 : 恐怖の昼と夜』姫路地方文化団体連合協議会、1973年。doi:10.11501/12399203。
- 姫路空襲を語りつぐ会姫路空爆の記録第二集編集委員会 編『姫路空爆の記録 第2集』姫路空襲を語りつぐ会、1989年。doi:10.11501/12399204。
外部リンク
- 国立国会図書館リサーチナビ:第20、第21爆撃軍団作戦任務報告書(53) Nos. 215 through 220, Honshu targets, 22 June 1945.本州各地域
- 国立国会図書館リサーチナビ:第20、第21爆撃軍団作戦任務報告書(58) Nos. 247 through 250, Takamatsu, Kochi Himeji and Tokushima, 3-4 July 1945.高松、高知、姫路、徳島
- “戦災概況図姫路”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 2024年2月19日閲覧。同図は『姫路市史 第5巻下』にも付録。
- 姫路市FAQ「太平洋戦争の姫路空襲について、概要を教えてください。」姫路市、2024年2月19日閲覧。
- 総務省:姫路市における戦災の状況
姫路大空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 21:26 UTC 版)
1945年7月3日16時23分(日本時間)、マリアナ諸島のグアム・サイパン・テニアンの3島4基地から、徳島・高松・高知、そして姫路への爆撃のため501機のB-29が出撃し、硫黄島を経由して、それぞれの都市へと向かった。同日深夜から翌未明にかけての約2時間、姫路市街地全域に焼夷弾が降り注いだ。火の手は姫路駅前から上がり、順次周辺へと拡大、町は火の海と化し、総戸数の40%が焼失。飾磨でも一部が被災した。 死者173人、重軽傷者160人余、全焼家屋約1万300戸、被災者45182人。 姫路城は天守に命中した焼夷弾が発火せずに焼失を免れ、その姿に勇気づけられた被災者もいたようである。
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