姓名及び仮名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:33 UTC 版)
一般的に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている。 香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば永禄4年に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点、または弘治2年(1556年)に小山田昌行(備中守)が水内郡海津城(長野市松代町)から雨飾城に番替えとなると後任として海津城代となり、この時点で「高坂」を称していたとしている。なお、海津城築城は『甲陽軍鑑』によれば永禄3年のこととしている為、矛盾がある。一方、高野山成慶院「武田家過去帳」では弘治4年時点で「香坂弾正」を称してることが確認される。この他に「香坂」姓の名乗りが確認されるのは、永禄2年11月屋代政国宛判物における副状で、早くとも永禄6年6月まで「香坂」姓を称し、遅くとも永禄9年9月までには復姓している。 名については確実な文書上からの実名は「虎綱」であることが指摘されており、「昌信」(しょうしん)に関しては出家名であるとされる[要出典]。 また、仮名として弾正を名乗っていたとされ、しばしば「高坂弾正」と記載する場合もある。永禄2年まで「弾正左衛門尉」を称し、同年以降には「弾正忠」に改めている。 本記事においては以下、春日虎綱として記述する。
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