妻よ五十年吾と面白かつたと言いなさい
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出 典 |
無類の妻 |
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評 言 |
かつて「無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」の句がこの欄に取り上げられたが、それと表裏を成す一句。「無礼なる妻」が、妻への無窮の愛を湛えているのに対して、掲句は五十年来の艱難辛苦が隠し味となっている。つまり、両者の水位が底まで見通せるところが味噌なのである。 明治36年、徳島県の小作農の三男に生れた夢道は、最初に出会った俳句が荻原井泉水の自由律であり、「層雲」と共に俳句人生がスタートする。その後、昭和5年には栗林一石路らとプロレタリア俳句運動を起こし、俳誌「旗」創刊号は発禁処分を受ける。翌6年には、50年連れ添うことになる静子との恋愛結婚を理由に馘首(50年は最初に出会った時かららしい)。そして、京大俳句事件から1年後の16年2月、小雪舞う未明に特高に捕縛され、2年余りの獄中生活を強要されることとなる。この時の句が「大戦起るこの日のために獄をたまわる」。 さて、夢道の自由律俳句(概観したところ、8音から46音まであった)は、基本的に言葉を削り取る作業がない。切字も必須要件ではないので(掲句は「五十年」で切れるが)、句の深み・余情に欠ける嫌いがある。しからば、どこで持ち味を発揮するのかということになると、掲句のように含羞の裏返しとしてのシニカルな態度・滑稽・揶揄ということになろうか。殊にプロパガンダとしてのプロレタリア俳句には、一瞬で理解できる自由律は最適な詩形であり、夢道の得意とする妻恋俳句でも、夫婦の駆引きと距離感が巧まずして伝わってくる。 |
評 者 |
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備 考 |
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