女谷村名称の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 00:43 UTC 版)
女谷は延宝の頃までは本谷村と称していたが、延宝期間の1673年~1681年の間に女谷村に改称されたとの伝承がある。「略縁起によると道鏡という奈良時代の僧侶が美女窟を尋ねると淫女が集い、舞い、謡っていたがその正体は古ムジナであった。それを知った道鏡が、不動空縛をすると、淫女達は倒れて死んだ。」これが女谷に改称した由来とされている。また、現在は大字女谷の中の地区としてある「駒之間」は駒之間村としてあったが、どこかの年代で合併された。 1681年(天和元年) - 年号が変わり幕府直轄領に定められた際に検地が実施される。当時は女谷村、折居村、市野新田、清水谷村の4か村行政。大型新田開拓開始。 新田開拓の際は、高原田沖の干拓に女谷川の瀬替幸二を行い、下野、上野、宮原各地域の荒野に水を引いて開いた。 1716年(享保元年) - 宮原の本所坊が創立。 1764年(明和元年) - 高原田の裏山で大雪崩が2度発生。 1815年(文化12年) - 綾子米女谷組が江戸浅草寺境内などで興行。 1828年(文政11年) - 約150年前に始まった大型新田開拓が終了。 1831年(天保2年) - 静雅園着工(推測)。 1862年(文久2年) - 宮原の観音寺が創建。
※この「女谷村名称の起源」の解説は、「女谷」の解説の一部です。
「女谷村名称の起源」を含む「女谷」の記事については、「女谷」の概要を参照ください。
- 女谷村名称の起源のページへのリンク