女性の地位・権利
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「マルグリット・デュラン」の記事における「女性の地位・権利」の解説
1900年のパリ万国博覧会の一環として女性の地位・権利に関する国際会議が開催されたときには、デュランが事務局を務め、『ラ・フロンド』で大々的に取り上げた。これはフェミニスト新聞の存在を広く知らしめ、フェミニズムの啓発に資することになった。1904年、ナポレオン民法典100年を記念する機会に、フェミニストは100年にわたって女性を結婚、家庭、社会において劣等な地位に置いていたこの民法典に抗議する大規模なデモを行った。デュランはこの一環として10月29日にネリー・ルーセル、リヨンの「フェミニスト教育・行動」を結成したオデット・ラゲール(フランス語版)、「フェミニスト連盟」を結成したガブリエル・プティ(フランス語版)とともに抗議集会を開催した。デュランは演説で、「この法典を憎まない者は女ではない。富者であれ貧者であれ、貴婦人であれ労働者であれ、貧窮においてまたは財産に関して、わが身においてまたはわが子のために、労働または無為において、この法典のために苦しんでいない、または苦しむことのない者は女ではない」と語った。 『ラ・フロンド』は「ペティコートの時代」と呼ばれ、最盛期には5万人の読者を得たが、1903年から月刊誌になり、1905年には経営難と内部対立により廃刊を余儀なくされた。デュランはその後も主に女性の労働問題を扱った新聞をいくつか創刊し、『ラ・フロンド』もいったんは再刊されたが、いずれも短命に終わった。
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