奥絵師から画学教師へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:04 UTC 版)
明治20年(1887年)10月図画取調掛が東京美術学校と改称されると、図画教授方嘱託となり、新設の美術学校の運営に尽力した。明治22年(1889年)東京美術学校雇、同24年8月には助教授となり、明治29年(1896年)4月まで教鞭を取った。この頃の教え子に大村西崖、白井雨山、白濱徴、島田佳矣、岡本勝元らがおり、その一方で、ヘレン・ハイド、リリアン・メイ・ミラー、エミール・オルリックら外国人にも狩野派の骨法を教えている。明治24年(1891年)叔父永悳立信が亡くなると、その養子で狩野宗家を継いだ狩野忠信の後見人となる。明治26年(1893年)シカゴ万国博覧会では、「平治合戦図」を出品するとともに、日本政府の展示場・鳳凰殿上段の間に小襖の花篭と果物篭の絵を描く。 大学を退官した後は東京聾唖学校の教諭となって亡くなるまで勤務した一方、名利を絶ち、のんびりと筆硯に親しむ悠々自適の生活を送る。主幹を務めた雅邦と違い、日本美術院にも積極的に関わらなかったようだ。晩年の友信は狩野派再興を願って事あるごとに狩野派について語ったが、この願いは叶わなかった。明治45年(1912年)6月門人知人ら200名余りの発起で、古希の祝賀園遊会が盛大に行われたが、その一ヶ月後水戸を漫遊中脳溢血により客死した。東朝新聞によると、娘の嫁ぎ先である水戸を訪ねた際に中風が発症し、駒込上富士前町の自宅に戻ったのちに死去した。墓所は染井霊園で、大正3年(1914年)には狩野家歴代の墓がある池上本門寺にも分骨された。
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