太刀川恒夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/27 10:09 UTC 版)
たちかわ つねお
太刀川 恒夫
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生誕 | 大刀川 恒夫 1937年??月??日 ![]() |
死没 | 2025年2月13日 |
死因 | 老衰 |
出身校 | 中央大学法学部政治学科二部 |
職業 | 実業家 |
太刀川 恒夫(たちかわ つねお、1937年(昭和12年)[1] - 2025年(令和7年)2月13日[2])は、日本の実業家。神奈川県横浜市出身[2]。東京スポーツ新聞社の社長・会長を歴任した。
なお戸籍上の名字の表記は「大刀川」であり、毎日新聞など一部のマスメディアでは同表記を用いている[3]。
略歴
1955年、山梨県立日川高等学校を卒業後、児玉誉士夫の著作を読んで「共鳴し」、児玉のような人間になろうと考え上京、1960年に児玉宅に書生として住み込んだ[4]。その後、児玉から政治の勉強をするよう指示され、河野一郎代議士を通じて中曽根康弘を紹介され、中曽根の書生となり、中央大学法学部政治学科二部に入学[4]。昼は中曽根事務所で働き、夜は大学に通った[1]。
1966年大学卒業後、児玉の秘書となり、児玉事務所で働き出す[4]。1968年には当時児玉が事実上のオーナーだった東京スポーツに入社[5]。
1976年にはロッキード事件に児玉が関与した疑いから、秘書で「腹心」とされた太刀川も逮捕・勾留されるが、88日間にもわたる勾留の間一切口を割らなかった[1]。結局同事件で太刀川は外為法違反並びに強要罪で起訴されるが、1981年11月に東京地方裁判所は外為法違反のみを認め、懲役4月・執行猶予2年の有罪判決を下し、太刀川は控訴せずそのまま確定した[6]。
1976年3月、児玉宅に俳優がセスナ機で突入した際(児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件)には、太刀川が児玉を背負って逃げるなど、2人は固い絆で結ばれ[7]、児玉が経営に関与する複数の企業で役員を務めた。
1984年の児玉の死去後は、東京スポーツ新聞社の経営に事実上専念。1990年に同社の社長に就任、2007年に同社会長となり、2023年9月に同社名誉会長に退く[2]。勇み足の芸能記事に激しい抗議が来た際は、編集部門に代わって自ら話し合いに乗り出すこともあったという[1]。この間には、日本レスリング協会副会長なども務めた[2]。
ロッキード事件や児玉に関する取材には、沈黙を守り[3][1]、2025年2月13日、老衰のため88歳で死去[2]。
人物
東映社長などを務めた岡田茂を慕う経営者の集まり「オーケー会」で世話人を務めており、同会の主要メンバーとは親交が深かった。主なメンバーに本庄正則(伊藤園)、櫻田慧(モスフードサービス)、堀威夫(ホリプロダクション)らがいる[1]。
また第52代横綱・北の富士勝昭の現役時代の後援会長を務めたこともあったという[8]。
脚注
- ^ a b c d e f 「“黒幕”の秘書「太刀川恒夫さん」守り抜いた沈黙 「ロッキード事件の片隅にも連座するなど、心休まることの少ない人生」【追悼】」デイリー新潮、2025年3月13日。2025年4月19日閲覧。
- ^ a b c d e 「太刀川恒夫さん死去(東京スポーツ新聞社名誉会長)」時事通信、2025年2月15日。2025年4月19日閲覧。
- ^ a b 堤 哲「東スポのドン太刀川恒夫名誉会長が亡くなった。88歳」東京毎友会、2025年2月28日。2025年4月19日閲覧。
- ^ a b c 春名 2020, p. 560.
- ^ 「東スポ・太刀川恒夫名誉会長死去 88歳 レスリングや柔道の発展に大きく寄与」『東スポWEB』 東京スポーツ新聞社、2025年2月25日。2025年4月19日閲覧。
- ^ 朝日年鑑 1983, p. 259.
- ^ 「「大物フィクサーの元秘書」「セスナ機墜落では救出」…故・東スポ名誉会長の「裏の履歴書」」現代ビジネス、2025年3月13日。2025年4月19日閲覧。
- ^ 吉武保則「〝不穏ムード〟を吹き飛ばした北の富士さん「路上でがっぷり四つ」」『東スポWEB』 東京スポーツ新聞社、2024年11月24日。2025年4月19日閲覧。
参考文献
- 『朝日年鑑』朝日新聞社〈1983年版〉、1983年2月。
- 春名幹男『ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス』KADOKAWA、2020年10月。 ISBN 978-4041054734。
- 太刀川 恒夫のページへのリンク