大院君との交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 21:10 UTC 版)
事変後に朝鮮政府を掌握し、日本の交渉相手となったのは壬午事変を引き起こした大院君であった。花房は護衛2個中隊を引き連れて漢城に入り交渉を開始するが、朝鮮政府は3日間を回答期限として手交した8箇条の要求書を受け取りはしたものの、「王妃の葬儀の準備に忙しく、(期限内の)決答は困難である」として退けた。この回答を受けて花房は不満を表明して漢城の宿を引き払って済物浦へと去り、朝鮮側が謝罪の使者を派遣し交渉再開の打開策を明示できなければ日朝間の友誼は失われると通達した。 しかし日朝間の交渉の停滞にいち早く反応したのは仁川に展開していた馬建忠率いる清国軍だった。馬は数百の清国兵を率いて花房等交渉団が漢城を去るのと入れ違いに入京していたが、済物浦に逗留していた花房の下を訪れて「大院君を排斥し、交渉を調停する用意がある」と打ち明けた。花房は従来の方針の通りその提案を拒否したが、程無くしてその計画は実行された。 清国軍の陣営に誘き出された大院君は身柄を拘束されて清国へと連れ去られ、漢城には「大院君が清国皇帝の怒りに触れて処罰された」とする掲示文が貼り出され、文中には「天朝與爾朝鮮臣主誼猶一家」との文言もあった。大院君は以後3年間に亘って清国に拘留されることになる。
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