大院君弾劾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:59 UTC 版)
1873年11月3日、大院君の政治を批判する上疏を崔益鉉が提出し、これを受けて閔妃と神貞王后が高宗にこの国は大院君の国なのかと問い詰めた結果、高宗をはじめ権門勢家及び各党派そろって大院君を失脚に追い込み、雲峴宮で隠居させた。あらためて高宗の親政が宣言され、事態を主導した閔妃は大院君に代わって大権を握ることになった。閔妃は攘夷強硬派であった大院君と違って西洋や日本に対しては好意的な態度を示して開国政策に転じ、日朝修好条規をきっかけとして朝鮮の門戸開放を進めた。
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