大阪RENK事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 16:39 UTC 版)
「救え! 北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」の記事における「大阪RENK事件」の解説
1994年4月15日、金日成の最後の誕生日となる日、RENKは大阪で「北朝鮮民主化支援・全国集会-特派員と留学生が語る"素顔の北朝鮮"-」という集会を開いたが、ここに朝鮮総連のメンバーが隊伍を組んで続々と集まり、会場に乱入、主催者に暴行し、備品をひっくり返すなどの乱暴狼藉をはたらいた。報道陣も暴行を受け、会場外に放り出され、メディア関係者は全員顔面蒼白となった。フィルムは強奪され、テレビカメラも破壊された。証言予定者だった朴春仙は朝鮮総連の若者に取り囲まれて罵声を浴び、実兄一家5人が北朝鮮で行方不明となった曺浩平の妹曺幸は暴行を受けて全治1か月の重傷を負った。ジャーナリストの萩原遼も小突き回されたり、首を絞められるなどの暴行を受けた。どさくさ紛れにRENKメンバーのリュックサックを開けて盗みをはたらく者もいた。機動隊200名が投入されたが、すでに時期を逸しており、朝鮮総連の突撃隊は警官にさえ向かっていった。大阪城近くで開く予定だった屋内集会は断念せざるを得ず、緊急の抗議集会を開いた。デモ行進も予定していたが、これも攻撃を受け、結局、コース半分で中止となった。朝鮮総連が目標としていた李英和は、機動隊の装甲車に乗せられて脱出せざるを得なかった。平和的な言論・集会を、暴力と恐怖で抑えようとする朝鮮総連と北朝鮮の実態が明らかになった事件であった。
※この「大阪RENK事件」の解説は、「救え! 北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」の解説の一部です。
「大阪RENK事件」を含む「救え! 北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」の記事については、「救え! 北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」の概要を参照ください。
- 大阪RENK事件のページへのリンク