大賞時代とは? わかりやすく解説

大賞時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 15:55 UTC 版)

グラディアトゥール賞」の記事における「大賞時代」の解説

ナポレオン失脚による混乱によって、1815年からしばらくの間競馬中止になったが、ルイ18世即位して王政復古すると、1819年競馬再開された。後を継いだシャルル10世もまた競馬傾倒した1828年優勝馬ヴィットーリア(Vittoria)はシャルル10世王太子アングレーム公爵生産馬だった。公爵生産馬過去6年大賞のうち5回を制していた。一方、後にフランスの馬種改良奨励協会会長となるヘンリー・シーモア=コンウェイ卿フランス生まれフランス育ちだが国籍イギリス人で、親から受け継いだ資産イギリスから次々と名馬購入して競馬使い当時フランス代表する馬主として知られていた。既に馬主として名声を手にしていたシーモアコンウェイ卿だったが、大賞はまだ勝ったことがなく、どうしてもヴィットーリアを負かさなければ自尊心が許さなかった。そこでシーモアコンウェイ卿はイギリスからグッドウッドカップ優勝馬リンクボーイ(Link Boy)を購入してヴィットーリア挑んだが、敗れてしまった。すると今度2000ギニー優勝馬ターコマン(Turcoman)を買ってきてヴィットーリア挑んだ5000フラン賭けたマッチレースでターコマンはヴィットーリアのすぐ後ろ追走し、勝負どころスパートかけようとしたが、逆に離されしまって2馬身差で敗れた納得いかないシーモアコンウェイ卿は、両者負担重量変えることを提案したヴィットーリア牝馬だったので、負担重量軽減されていたが、それをなくして馬齢重量だけの勝負求めた賭け金前回の5倍の25000フランとした。しかし、シーモアコンウェイ卿は賭け成立前にターコマンを売却してしまい(ヴィットーリアの側はこの申し出を受けるつもりでいた)、この勝負実現しなかった。いずれにしろ、シーモアコンウェイ卿の挑戦は、皮肉なことにヴィットーリア名声高めることにしかならなかった。シーモアコンウェイ卿は翌1829年ライオネル(Lionel)で念願大賞勝った一方アングレーム公は翌1830年の夏に起きた七月革命で国を追われた。

※この「大賞時代」の解説は、「グラディアトゥール賞」の解説の一部です。
「大賞時代」を含む「グラディアトゥール賞」の記事については、「グラディアトゥール賞」の概要を参照ください。

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