大賞時代
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「グラディアトゥール賞」の記事における「大賞時代」の解説
ナポレオンの失脚による混乱によって、1815年からしばらくの間は競馬が中止になったが、ルイ18世が即位して王政が復古すると、1819年に競馬が再開された。後を継いだシャルル10世もまた競馬に傾倒した。 1828年の優勝馬ヴィットーリア(Vittoria)はシャルル10世の王太子アングレーム公爵の生産馬だった。公爵の生産馬は過去6年の大賞のうち5回を制していた。一方、後にフランスの馬種改良奨励協会の会長となるヘンリー・シーモア=コンウェイ卿はフランス生まれのフランス育ちだが国籍はイギリス人で、親から受け継いだ資産でイギリスから次々と名馬を購入しては競馬に使い、当時のフランスを代表する馬主として知られていた。既に馬主として名声を手にしていたシーモア=コンウェイ卿だったが、大賞はまだ勝ったことがなく、どうしてもヴィットーリアを負かさなければ自尊心が許さなかった。そこでシーモア=コンウェイ卿はイギリスからグッドウッドカップの優勝馬リンクボーイ(Link Boy)を購入してヴィットーリアに挑んだが、敗れてしまった。すると今度は2000ギニーの優勝馬ターコマン(Turcoman)を買ってきてヴィットーリアに挑んだ。5000フランを賭けたマッチレースでターコマンはヴィットーリアのすぐ後ろを追走し、勝負どころでスパートをかけようとしたが、逆に離されてしまって2馬身差で敗れた。納得のいかないシーモア=コンウェイ卿は、両者の負担重量を変えることを提案した。ヴィットーリアは牝馬だったので、負担重量を軽減されていたが、それをなくして馬齢重量だけの勝負を求めた。賭け金は前回の5倍の25000フランとした。しかし、シーモア=コンウェイ卿は賭けの成立を前にターコマンを売却してしまい(ヴィットーリアの側はこの申し出を受けるつもりでいた)、この勝負は実現しなかった。いずれにしろ、シーモア=コンウェイ卿の挑戦は、皮肉なことにヴィットーリアの名声を高めることにしかならなかった。シーモア=コンウェイ卿は翌1829年にライオネル(Lionel)で念願の大賞に勝った。一方のアングレーム公は翌1830年の夏に起きた七月革命で国を追われた。
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