大統領職を離れて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:52 UTC 版)
「カルロス・イバニェス・デル・カンポ」の記事における「大統領職を離れて」の解説
チリはアレッサンドリが第22代大統領として再選し経済政策が立ち直る1932年まで政治的安定を得られなかった。 イバニェスは1937年に帰国し、人民自由同盟(スペイン語版)(APL)の支援を受けて大統領選への出馬を発表した。APLは社会主義者連盟(スペイン語版)とチリ国家社会主義運動(スペイン語版)(MNS)から成る勢力である。 選挙前の1938年9月5日、MNS党員の一部がアレッサンドリに対するクーデターを起こした。このクーデターは早期に鎮圧され、参加した約60人のMNS党員は武装解除された後、カラビネーロスによって労働保険ビルの前でほぼ全員が処刑された。 労働保険ビルの虐殺(スペイン語版)としてこの事件は広く知られることとなり、カラビネーロスへの批判もあったが、同時に人民自由同盟とイバニェスに対する批判も盛り上がり、やむなくイバニェスは出馬を断念した。人民自由同盟は最大の対抗馬でありアレッサンドリが支援する右派候補グスタボ・ロス(スペイン語版)を支持することはなく、不本意ながらも人民戦線(スペイン語版)から出馬した左派候補ペドロ・アギーレ・セルダ(スペイン語版)の支持を宣言した。 選挙ではアギーレが圧倒的な勝利を収めたものの、1939年には右派陣営の重鎮である陸軍のアリオスト・エレーラ(スペイン語版)将軍がタクナ砲兵連隊を率いてアギーレに対するクーデター(スペイン語版)を起こした。エレーラの反乱はすぐに鎮圧されたが、右派陣営ではアギーレよりもイバニェスを推す声が強く、エレーラもまたクーデターの後にはイバニェスを大統領に据えるつもりであった。また、エレーラやタクナ砲兵連隊の将校は全く罪に問われていない。 1942年、イバニェスの支持者から成るイバニェスト運動ではイバニェスを新たな大統領候補として立候補させる事を宣言した。イバニェスは早期のうちに小さな極右政党の多くを味方につけ、支援を得る事に成功した。さらに右派最大勢力である保守党と自由党もイバニェスを支持した。選挙でイバニェスは44%の票を得たものの、結局左派候補者のフアン・アントニオ・リオス(スペイン語版)に敗北した。
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