大溝堀の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 10:22 UTC 版)
1648年(慶安)の頃、丹波村の村役人であった伊左衛門は村民の苦悩を思い、昼間には農作業を行いつつ夜間、妻とともに数町ごとに提灯を立て、竹で作られた水平器・竹筒等を用いて地面の高低を測量した。およそ半年をかけた測量の結果、新山橋から約200メートル上流の荒山地内にある竹野川と鱒留川との出合地点から、水を水田に引くことが可能であると判断した。 伊左衛門は、村人たちに工事について数回にわたり説明をしたが、当初は理解を得られず、相手にされなかった。伊左衛門は村の庄屋と相談し、仮に完成しなかった場合は自分の首を差し出すと誓いを立て、話し合いのすえ村人の賛同と、荒山地の庄屋に荒山地内に井堰を設け、大溝を通す許可を得た。さらに、峯山藩の許可を得、1650年(慶安3年)に村の人々総出で大溝堀が始まった。この工事に対し、峯山藩も領内の村々から延べ3,619人の人足を送り込み、溝料として7石5升の引地をおこなった。 大溝工事は、荒山地内を193間、丹波地内を600間通す、総延長793間に及んだ。
※この「大溝堀の開始」の解説は、「丹波の大溝」の解説の一部です。
「大溝堀の開始」を含む「丹波の大溝」の記事については、「丹波の大溝」の概要を参照ください。
- 大溝堀の開始のページへのリンク