大沢基重とは? わかりやすく解説

大沢基重

江戸前期旗本。基宿の子。父以後代々高家をつとめる。慶長15年従五位下侍従右京亮叙せられ、徳川秀忠近侍して、のち遠江国采地賜う徳川家光家綱の上洛の際伺候し朝廷との連絡役をつとめた正保2年(1645)従四位下に至る。慶安3年(1650)歿、49才。

大沢基重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/03 13:56 UTC 版)

 
大沢基重
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年(1602年
死没 慶安3年5月26日1650年6月24日
別名 通称:虎松
戒名 康庵寺殿押山勝英大居士
墓所 吉祥寺
官位 従四位下侍従右京亮
幕府 江戸幕府 高家旗本
主君 徳川秀忠家光
氏族 大沢氏持明院家庶流
父母 父:大沢基宿、母:一条信龍
兄弟 基重持明院基定、基成、基近、
山名豊政正室ら4男2女
養兄弟:基賀
正室:近藤季用
基将尚親、基哲、土方勝次室、
中野弘吉室、松平乗延[1]
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大沢 基重(おおさわ もとしげ)は、江戸時代前期の高家旗本通称は虎松。官位従四位下侍従右京亮

生涯

大沢基宿の長男として誕生した。

慶長15年(1610年)、従五位下・侍従・右京亮に叙任する[注釈 1]。同年、部屋住ながら、2代将軍・徳川秀忠に召し出されて、「近侍」することになる。また、遠江国敷知郡内で1000石を賜る。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に際し、水野忠清の部隊に所属し参加する。元和元年(1615年)、大坂夏の陣に参加し、首一級を得る戦功を挙げる。

寛永9年(1632年)9月12日、父・基宿の隠居により家督を相続する。寛永17年(1640年)、基宿の死去により、その遺領と合わせて2550石余を領有する。寛永18年(1641年)3月、同年7月、正保2年(1645年)5月と3度にわたって朝廷に対する幕府の使者として上洛する。実質的な高家職の役割を果たす。正保2年(1645年)6月10日、従四位下に昇進する。慶安2年(1649年)7月、朝廷に対する幕府の使者として上洛する。慶安3年(1650年)5月26日、死去。享年49。

系譜

子女は3男3女。3女とも尚親の妹。

脚注

注釈

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』では慶長15年になっているが、『光豊公記』では慶長16年になっている[2]

出典

  1. ^ 大給松平家
  2. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、P117
先代
大沢基宿
高家大沢家2代当主
1632年 - 1650年
次代
大沢基将



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