大正海上・三崎船舶時代
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1974年、大学卒業後、大正海上火災に入社。その後、ほどなくして大正海上を辞め、再就職。神奈川県三浦市の三崎向ヶ崎にあった従業員350人の中規模造船会社、三﨑船舶工業㈱に勤め始める。旧制の四高(金沢)から東京帝国大学の機械工学科を出て、戦中は軍艦を造る技術将校だった平井顕が社長で戦後に起業した会社であった。 1981年、お見合いをし、妻となる充子と出会う。妻は学習院大学の国文科で『源氏物語』を研究、国語学者の大野晋の弟子に当たる。妻との結婚生活は二年二ヶ月続いたが、妻はスキルス性の乳癌にかかり、闘病生活を余儀なくされる。癌が発見された時に既に妊娠しており、抗癌治療をせずにお腹の子供を産む事を決意。整体の野口晴哉の一番弟子の臼井栄子や、漢方を扱い独特の食事療法を行う医師の重野哲寛にかかり、1983年5月に出産、娘が生まれる。その後、ほどなく妻は亡くなる。
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