大久保利通に登用される
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 07:05 UTC 版)
1871年(明治4年)、廃藩置県の後、伊那県出仕となる。大久保は当時伊那県知事で同郷の永山盛輝を通じ、千秋・国武兄弟を東京に呼び出して民部省勤務とする。1873年(明治7年)大蔵省租税寮7等、ついで6等出仕となる。渡辺は大蔵卿大隈重信、租税頭松方正義、地租改正局総裁の大久保の下、地租改正に取り組む。 征韓論をきっかけに自由民権運動が全国に澎湃とすると、1876年(明治9年)、渡辺は高知県に権県令として派遣される(当時の高知県は現在の徳島県域も含む)。渡辺は内務卿となった大久保に、あえて細かい現地の情報を伝えることはせず、1877年(明治10年)に西南戦争が勃発した際、高知県で西郷軍に呼応して挙兵する動きを押さえることに成功する。1878年(明治11年)に高知県令に昇るが、翌1879年(明治12年)、高知県内の郡合併が内務卿の許可なく行われたとして、責めを負って辞任する。
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