夜間学校・保育所への発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 14:51 UTC 版)
「子守学校」の記事における「夜間学校・保育所への発展」の解説
子守をする子ども達は貧しい農村や漁村の出身で、親が教育の価値を知らず、子守学校を歓迎しないことも多かった。そのため大分県下毛郡では、明治19年(1886年)、子守から解放される時間帯である夜に地元の小学校と、学校から離れた集落の借家で、昼間子守をする子ども達を対象にした夜間学校が設けられた。 また子守学校では、乳児・幼児をつれたまま学校に行っても、授業を受ける間代わりに乳幼児の世話をしてくれる職員が配置されていたわけではなかった。公立の学校ではそこまでの配慮は到底行き届かず、民間レベルではじめてそこまでの手が及ぶようになった。明治23年(1890年)に、新潟市で赤沢鍾美(あつとみ)・仲子夫妻が新潟静修学校付設保育施設(1908年に「守孤扶独(しゅこふどく)幼稚児保護会」に改称、現赤沢保育園として新潟市中央区東湊町通にある)を開設した。これが日本最初の保育所である。 子守学校は、このように社会経済的な背景をもって特殊な事情の中で誕生したものであるが、日本の夜間学校、保育所の成立につながるものとして、日本の教育史において独特の意義を持っている。
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