外国馬の不在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:36 UTC 版)
3年目の凱旋門賞にはフランス以外からの参戦がなく、クサールが大本命(1.3倍)、2番人気以降は12倍以上となって、クサールが難なく連覇を達成した。 クサールが引退したあと、4年目の凱旋門賞はイギリスのパース(Parth)が優勝した。しかしながらパースはイギリス国内で最も優れたサラブレッドというわけではなく、この年のイギリス二冠馬パピルス(Papyrus)は凱旋門賞には目もくれず、アメリカの競走馬と対決するために渡米していた。 5年目・6年目の凱旋門賞も外国からの出走がなかった。それどころか、前年の覇者パースも同時期のイギリスのジョッキークラブステークスに出走することを選び、凱旋門賞の主催者を落胆させた。イギリスの一流馬がさっぱりやって来ない理由はいくつか考えられていたが、フランス・フランの相場の下落や、フランスでは奨励協会が馬券を独占し馬主が自由に大金を賭けられる環境がないことが、イギリスの馬主に敬遠されていると考えられていた。駐フランス大使を務めていたダービー卿はしばしば素晴らしい名馬を凱旋門賞に登録して主催者に期待をさせたが、結局出走することはなかった。その後もイギリスから本物の一流馬がやってくることはなかった。 一方、国外からやってきたのはイタリアやドイツの活躍馬で、ドイツからは1928・29年にドイツの歴史的な名馬となったオレアンデル(Oleander)がやってきた。イタリア産馬は1929年のオルテッロ(Ortello)や1933年のクラポム(Crapom)などの優勝馬を出したが、こうした傾向は、イギリスの一流馬との対戦によってフランス産馬の優秀さを証明しようという当初の意図とはそぐわないものとなってしまった。
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