売却戦でのエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/19 04:45 UTC 版)
「スカパフロー (1914年生まれの競走馬)」の記事における「売却戦でのエピソード」の解説
スカパフローは1917年に3歳を迎えたが、相変わらず未勝利だった。そのうち、下級戦である売却競走(クレーミング競走)に出るようになった。 売却競走(クレーミング競走)は、事前にその競走馬の売値を示した上でレースに出走させるもので、レースのあと、その値段で買うと請求(クレーム)した者に対して馬を売却しなければならない。ダービー伯爵は、スカパフローに50ポンドの売値をつけて売却競走に出走させていた。ストックトン競馬場での売却競走(5ハロン=約1005メートル)で、スカパフローは2着に敗れたもののいい勝負をした。このレースに持ち馬を出走させていた別の馬主が、これを見てスカパフローの買い取り請求を行った。 ところがその時になって、ダービー伯爵とラムトン調教師は、スカパフローを手放すのが惜しくなったという。 この買い手は、スカパフローを本来の請求価格(クレーミングプライス)である50ポンドからさらに値切ろうとした。そこでラムトン調教師は、親友のジョニー・マクギーガン(Johnny McGuigan)調教師に頼み込んで、正価の50ポンドで買い取ってもらった。そしてスカパフローを再びラムトン調教師のもとへ返還してもらったのだという。マクギーガン調教師はそのままスカパフローを自分のものにすることができたが、それをせずに返還したことはマクギーガン調教師の誠実さを示すものだったとされている。 別の伝えに拠れば、適正な手続きでスカパフローを購入したマクギーガン調教師が、スカパフローの将来性を見出し、もう少し長く走らせたほうが良いと進言して同馬をダービー伯爵のもとへ送り返し、それで伯爵もその気になったという。 サー・チャールズ・レスター(9代レスター准男爵)は1957年の自著『サラブレッドの世界』(原題“Bloodstock Breeding”)のなかで、最初の「ゼントルマン」が「ねぎろうとしなければ」スカパフローはその人物の手に渡り、その後のサラブレッド血統史は大きく違ったものになっていただろうと述べて、一連の出来事は「サラブレッド生産にともなう栄枯盛衰」を表しているとした。アメリカのスリーチムニーズファームで血統分析を担当するアン・ピーターズ(Anne Peters)も、もしもスカパフローがそのまま売却されて返還されていなかったら、サラブレッドの歴史は大きく変わっていただろう、と述べている。
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