在位中の業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 07:35 UTC 版)
一連の乱を平定し終えた黎龍鋌は、自らの政権の安定化に努めた。1006年、黎龍鋌は長男の黎龍乍を太子として立て、養子の黎紹理を楚王とし、黎紹勲を漢王とした。さらに宮中の官位制度と正装は宋を手本とした。 安南における宮中の内紛を見て取った宋の官吏の凌策は、時の皇帝真宗に対し、混乱に乗じて兵を送り、安南を平定すべきであると建議する。しかし真宗は「安南は恭順を示している。その地は酷熱であり、兵馬を損ねる恐れがある」として出兵の建議を退けた。一方、黎龍鋌は弟の黎龍鏦(ベトナム語版)と書記の黄成雅を朝貢使節として宋に派遣した。1007年、宋の真宗は黎龍鋌を交趾郡王・領静海軍節度使(中国語版)に封じ、黎至忠(ベトナム語:Lê Chí Trung / 黎至忠)の名を授けた。 黎龍鋌の暴虐は父に勝り、その性は殺戮を好んだ。1008年、黎龍鋌は都良州・渭龍州・按洞・驩州・千良州に親征して異民族を捕虜とし、馬を鹵獲した。黎龍鋌は捕虜をむごたらしく処刑することで高揚感に浸ったという。1009年、愛州の武瀧江に行幸した折、川で多数の民衆が泳ぎ渡るのに難儀し、溺死者も出ていると聞きつけた黎龍鋌は人々を無理やり川に追い込んで泳ぎ渡らせたが、ただ一人の溺死者も出なかった。その後で川に浮橋を架けさせ、通行人の便宜を図った。
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