在ローマ・イギリス大使とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 在ローマ・イギリス大使の意味・解説 

在ローマ・イギリス大使(1933年-1939年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 18:09 UTC 版)

エリック・ドラモンド (第7代パース伯爵)」の記事における「在ローマ・イギリス大使(1933年-1939年)」の解説

事務総長退任した後、ドラモンドは駐ワシントン大使候補選ばれたが、カトリック改宗していたことを理由に、ラムゼイ・マクドナルド首相拒否権行使したその後1933年10月に駐ローマ大使任命され1939年4月まで務めたその1か月後の1939年5月外交官引退したローマで大使在任中、ドラモンドは「ムッソリーニ近づくのは難しい」と感じていた。ドラモンドは「(ムッソリーニが)...『非常に敏感な状態』にあるときは、細心の注意払って扱わなければならない」と指摘している。 イタリア外相ガレアッツォ・チャーノは、今のドラモンドが、イタリア対すフランス厳し態度理不尽だ確信していると考えていた。さらにドラモンドは、イギリス政府が「融和的」であることをイタリア人信じませようとし、「イタリア政策擁護する」とまで言っていた。イタリア諜報部員としてドラモンド報告書多くを読むことができたチャーノは、日記の中で、このイギリス大使ローマに来たときにはファシスト政権反対していたが、「ファシズム理解し愛してさえいる誠実な改心者」に成長したと書いている。チャーノの発言利用する際には常に注意必要だが、ドラモンド報告書によると、この発言には一定の真実性あったようである。 パースドラモンド)はムッソリーニドイツ対す態度見誤っていたかもしれないが、最終的には、ムッソリーニ1939年ドイツ味方するという意図実行することは、イタリア権力限界から不可能だったので、この点でも大きな間違いではなかった。

※この「在ローマ・イギリス大使(1933年-1939年)」の解説は、「エリック・ドラモンド (第7代パース伯爵)」の解説の一部です。
「在ローマ・イギリス大使(1933年-1939年)」を含む「エリック・ドラモンド (第7代パース伯爵)」の記事については、「エリック・ドラモンド (第7代パース伯爵)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「在ローマ・イギリス大使」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「在ローマ・イギリス大使」の関連用語

在ローマ・イギリス大使のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



在ローマ・イギリス大使のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエリック・ドラモンド (第7代パース伯爵) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS