在ローマ・イギリス大使(1933年-1939年)
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「エリック・ドラモンド (第7代パース伯爵)」の記事における「在ローマ・イギリス大使(1933年-1939年)」の解説
事務総長を退任した後、ドラモンドは駐ワシントン大使の候補に選ばれたが、カトリックに改宗していたことを理由に、ラムゼイ・マクドナルド首相が拒否権を行使した。その後、1933年10月に駐ローマ大使に任命され、1939年4月まで務めた。その1か月後の1939年5月に外交官を引退した。 ローマでの大使在任中、ドラモンドは「ムッソリーニに近づくのは難しい」と感じていた。ドラモンドは「(ムッソリーニが)...『非常に敏感な状態』にあるときは、細心の注意を払って扱わなければならない」と指摘している。 イタリア外相のガレアッツォ・チャーノは、今のドラモンドが、イタリアに対するフランスの厳しい態度は理不尽だと確信していると考えていた。さらにドラモンドは、イギリス政府が「融和的」であることをイタリア人に信じ込ませようとし、「イタリアの政策を擁護する」とまで言っていた。イタリアの諜報部員としてドラモンドの報告書の多くを読むことができたチャーノは、日記の中で、このイギリス大使がローマに来たときにはファシスト政権に反対していたが、「ファシズムを理解し、愛してさえいる誠実な改心者」に成長したと書いている。チャーノの発言を利用する際には常に注意が必要だが、ドラモンドの報告書によると、この発言には一定の真実性があったようである。 パース(ドラモンド)はムッソリーニのドイツに対する態度を見誤っていたかもしれないが、最終的には、ムッソリーニが1939年にドイツに味方するという意図を実行することは、イタリアの権力の限界から不可能だったので、この点でも大きな間違いではなかった。
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