国造軍の遺制説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/07 01:24 UTC 版)
学説状況を一変したのは、岸俊男が1955年に発表した論文「防人考」である。岸は、従来とりあげられなかった歌の順序(すなわち詠んだ人の順序)や人数に注意を促し、国造丁が国ごとの防人の筆頭にあることを示した。国造丁・国造が記された国は10国中4国しかないが、みなその国の防人の先頭に書かれる。他の肩書きには助丁、主帳丁または帳丁、火長、上丁または防人があり、おおよそこの順で並べられている。 当時施行されていた律令に国造丁という役職はないが、地方の軍団の役職は大毅、少毅、主帳、校尉、旅帥、隊正、火長、そして一般の兵士となっていた。隊長の大毅、補佐の少毅がおり、その下に事務官である主帳がつく。民政にあたる郡の役職も、大領、少領の下に事務官の主帳がつく。国造丁・助丁・主帳の関係も、軍団と同じく隊長・補佐・事務官と解釈できそうである。令制国単位で徴収された防人は、部領使をつとめる国司に引率されたが、部領使は部隊集結の地で引き返していく一時的な責任者である。すると国造丁が防人集団の隊長と考えられる。 この時代の国造は軍事・民政の実権を失っていたが、かつて地方から国造に率いられて編成された国造軍が防人の前身にあたることから、国造丁の呼び名が残ったというのが、岸の説である。この説は、直木孝次郎にも支持されて定説化した。
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