問注所・三善康信の子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:59 UTC 版)
八代国治は『明月記』と『吾妻鏡』の突き合わせを行い、建暦元年(1211年)11月4日条が『明月記』同年10月23日条を若干縮めて書いたものであることを発見する。更に翌年の建暦2年(1212年)7月8日条には「たまたま造営の事有り。すべからく上臈の上卿宰相弁これを奉るべきか」と『明月記』同年7月27日条の丸写しがある。それらに「善信申して云く」とあるのは三善康信のことである。八代国治はこの2件とも三善康信の評、または献策と偽装されており、そのことからも三善氏の子孫たる町野・大田氏が『吾妻鏡』編纂の中心に居たのではないかと推測した。 また、三代将軍源実朝が河野通信に与えたとされる御教書の記事は、永仁5年(1297年)の永仁の徳政令に関わる偽文書を元に書かれたものであることは先に触れたが、その元久2年(1205年)閏7月29日条にも「善信奉行す」とある。元となる偽文書が作成されてから編纂推定年代までは非常に短く、編纂者以外の創作が入り込む余地は無い為、三善氏の子孫が編纂者の一人として確実視される。
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