同族内での確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:58 UTC 版)
当主・松平広忠が天文18年(1549年)に急死(暗殺死という)して以降、松平宗家の今川氏への従属が強まり、松平党への求心力が弱まったため、庶流の松平家や有力家臣のなかには宗家とたもとを分かち尾張国の織田氏に味方するものや、逆に今川氏に直接帰属して下知を受けるものが現れた。忠茂の東条松平家も当時は今川氏の下知を直接受けていた。このため、他の有力松平分家としばしば対立し合戦に及んだ。忠茂の時に以下の合戦・係争があった。 天文20年(1551年)、松平甚二郎。上記のとおり、今川氏と松平竹千代(のちの徳川家康)に逆心した実兄・甚二郎と争う。 天文21年(1552年)、大給松平家。宗家に反した大給松平親乗の大給城を忠茂が攻め、今川義元より感状を受けた。 天文22年(1553年)~弘治2年(1556年)、桜井松平家。三州下和田(現・安城市内)の所領の帰属をめぐり桜井の松平家次(監物丞)と係争。忠茂存命中に家次から提訴されたが、忠茂戦死後の弘治2年(1556年)に今川義元の裁定により、忠茂の遺児亀千代の勝訴となった。 ※なお、1.は織田氏への内通、2.は松平親乗の妻が桜井松平信定の娘(また信定妻は織田信光の娘)、3.は桜井松平家次の母は織田信秀妹であるから、いずれも親織田派として今川氏と松平宗家に敵対していたと推定される。これに対し忠茂は今川氏と松平宗家を支持してこれと争ったと考えられる。
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