吉政系 田中氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:50 UTC 版)
出自は近江国人で近江源氏とも橘氏とも清和源氏の新田氏一族ともいわれるが、田中吉政の父の名も系図により食い違うなど判然とせず、実際は近江国高島郡田中村(滋賀県高島市安曇川町田中)の農民の子にすぎなかったともいわれる。また、宇多源氏佐々木支流であるとも言われ、その後(家紋に一つ目結を使っている)淵上氏に分家したともいわれる。しかし家紋に一つ目結紋(釘抜き紋ともいう)を用いたことから、なんらかの形で先祖は佐々木氏と血縁関係があったと推測される。戦国時代の田中吉政は、はじめ近江国人の宮部継潤に仕えた後、天正7年(1579年)ごろ羽柴秀吉に仕える。その後秀吉の甥羽柴秀次の付家老となる。文禄4年(1595年)の秀次切腹騒動の後、多くの関係者が連座して罰せられたが、吉政は秀次の付家老という密接な関係ながら、咎めを受けることはなかった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に付く。そして戦に敗れ伊吹山を逃亡中の、西軍大将石田三成を捕らえることに成功した。この大功により、筑後国柳川32万石を与えられた。しかし、吉政没後に跡を継いだ2代藩主田中忠政は子を残さないまま死去、柳川藩は無嗣断絶となり立花氏に継がれた。 その後、忠政の兄田中吉興が2万石を与えられたが、部下の罪を咎められてこちらも改易処分となった。以後、田中氏一族は旗本や陪臣として続いた。
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