吉忠以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 00:56 UTC 版)
小栗吉忠(又市、仁右衛門)は松平広忠に小姓として出仕し、ついで家康に仕えた。槍の功名があり、三河一向一揆の際には一族とともに筒針城を守った。掛川城攻めや小牧の戦いに従軍し、天正18年(1590年)に死去。吉忠の子・小栗忠政(又一)も、16歳で参陣した姉川の戦いで敵の首を取って以降、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城攻め、長久手の戦い、関ヶ原の戦い、大坂の陣などに従軍して多くの武功を挙げ、知行2550石。忠政の嫡男・小栗政信もまた上田城攻めや大坂の陣などで武功を挙げ、分知や加増を経て最終的に2500石を知行した。忠政の二男・小栗信由(小栗正信、仁右衛門)も大坂の陣で敵を組み討ちにして武功を挙げ、旗本として別家を立てたが、武芸流派の小栗流の創始者としても名を残している。 『寛政譜』編纂時には、旗本として8家が存続していた。小栗家宗家(小栗又一家)の人物では、幕末期に外国奉行などを務めた小栗忠順が著名であり、近代以後は小栗貞雄(実業家、衆議院議員)や小栗かずまた(漫画家。本名は又一郎)を出している。
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