司法部における藩閥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 03:24 UTC 版)
明治時代の司法部は、いわゆる「薩長土肥」と称される藩閥の強い影響下にあった。司法省幹部の比率は、司法卿・山田顕義、司法大輔・岩村通俊以下、八局三課の局長・課長クラス全12人中、山口県2人・鹿児島県1人・高知県2人・佐賀県1人の計6人であり、薩長土肥で半数を占めていた。このため、司法省議の決定権は薩長土肥からなる藩閥が握っていた。 大審院では、判事21人中、山口県2人・鹿児島県2人・高知県2人・佐賀県4人の計10人であり、司法省の場合と同様に薩長土肥でほぼ半数を占めていた。一方、全国七ヶ所の控訴裁判所では、判事総数59人中、山口県5人・鹿児島県なし・高知県7人・佐賀県5人の計17人であり、藩閥の占める割合は3割弱であった。始審裁判所では、判事総数186人中、山口県13人・鹿児島県なし・高知県16人・佐賀県12人の計41人で、藩閥の割合は2.2割であった。 控訴裁判所の所長と検事長クラスでは、全14人中、鹿児島県2人・山口県なし・高知県3人・佐賀県2人の計7人であり、半数を占めていた。特に、大審院や東京控訴裁判所・大阪控訴裁判所は、藩閥が固めていた。ほか、始審裁判所の所長・(上席)検事クラスでは、全国四十六ヶ所のうち、所長・(上席)検事ともに15ずつ藩閥が占めており、特に検事の場合は、藩閥で、東京・横浜・大阪・京都などの主要な裁判所を影響下に置いていた。 大審院・控訴裁判所・始審裁判所を纏めた、全国の判事総数における藩閥の比率は、266人中68人であり、2.6割(約四分の一)であるが、その「約四分の一」の藩閥が司法部の中枢を占めていた。
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