収塚古墳とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 収塚古墳の意味・解説 

収塚古墳

名称: 収塚古墳
ふりがな おさめづかこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 大阪府
市区町村 堺市百舌鳥夕雲町
管理団体
指定年月日 1958.05.14(昭和33.05.14)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 仁徳天皇陵東南近接して存する基底径約40メートル、高さ約4.5メートル円墳をなし、北がわに堀の痕跡とどめている。墳丘は低平でやや旧規を損うも百舌鳥古墳群の一として重要である。
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  原山支石墓群  原爆ドーム  友枝瓦窯跡  収塚古墳  古保利古墳群  古宮古墳  古屋敷遺跡

収塚古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/18 02:27 UTC 版)

収塚古墳
所属 百舌鳥古墳群
所在地 大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町
位置 北緯34度33分31.6秒 東経135度29分17.0秒 / 北緯34.558778度 東経135.488056度 / 34.558778; 135.488056
形状 前方後円墳
規模 墳丘長61m 
出土品 円筒埴輪
築造時期 5世紀中頃
史跡 国の史跡
地図
収塚古墳
大阪府内での位置
堺市内での位置
テンプレートを表示

収塚古墳(おさめづかこふん)は、大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁150-2にある前方部が短い帆立貝形前方後円墳(帆立貝形古墳)で、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の陪塚とされる。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つで、国の史跡に指定されている。

概要

大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の前方部南東隅近くにあり、前方部を西に向け、墳丘主軸線を大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の外濠に並行させるように造られた帆立貝形前方後円墳(帆立貝形古墳)である[1]。墳丘の位置と主軸線の方向から、陪塚の一つと考えられている[1][2]。前方部は削平され周濠も埋没し、現状は直径35メートル、高さ4メートル程の墳丘だけが残り円墳のように見えるが[3]、近年の発掘調査により、墳丘長60メートル前後、後円部直径が40メートル以上の帆立貝型古墳と判明した[4]。後円部は2段に築かれ、テラスには小形の円筒埴輪列が出土し[1]、他にも朝顔形・蓋型埴輪、須恵器高杯、器台などが出土している[2]。埋葬施設の構造や副葬品の詳細は不明だが、第二次世界大戦後に後円部墳丘に、鉄製短甲の破片が散乱していたとの記録がある[1][3]。墳丘の周囲には濠があるが、埋没保存されており、削られた前方部と埋まっている濠の輪郭を広場にカラー舗装で表示している。築造年代は、出土品などから5世紀中頃と推定されている。

形状・規模

昭和33年(1958年)に基底径約40m・高さ4.5mの円墳として国の史跡指定を受けていたが、平成元年(1989年)以降の立会調査や発掘調査により、前方部の短い帆立貝形前方後円墳であることが明らかになった[5]

平成20年度(2008年度)地中レーザー探査にもとづき、墳丘長57.7m ・前方部長さ26m・後円部径42m・高さ4.2mと推定された[6]

平成27年(2015年)の発掘調査により濠の外周が明らかになり、全長72.5m・墳丘長59m・後円部径42mの帆立貝形前方後円墳の復元図が作成された[7]

周濠の現状

現在、前方部と後円部の周濠の一部が歩道や広場にカラー舗装で復元表示されている。ただし、周濠の後円部の表示が二重になっているのは、歩道側が1997年、広場側は2015年調査結果にもとづいて復元されたためである。周濠の前方部は2015年の調査結果をもとにカラー舗装で全体の大きさが表現されている。

調査概要

  • 2006年(平成18年)11月13日から12月1日 - 本古墳が、前方後円墳か円墳かの確定と、北側周濠の提と幅を確認するために調査が行われた[8]
    • 墳丘の左のくびれ部と推定される場所に、幅1.5メートル、長さ15メートルのトレンチが設けられた[8]
      • 層序 - 表土、盛土、旧耕作地、床土、周濠内盛土2層、地山が確認された。旧耕作土は、削平されたり、土管・下水管などの埋設により撹乱を受けていた[8]
      • 周濠内 - 濠上層には、灰黄色粘質土で、下層は暗灰黄色粘質土が堆積し、地山は黄色粘質土に砂粒をやや含んでいた。周濠低部は、ほぼ平坦に成形されており、濠底部幅は10.5メートル、濠上面幅は18.5メートルであった。また、底部には中世の遺構が2箇所あった[9]
      • 墳丘 - 地山の上層は床土で、墳丘基盤面なのか削平された平坦面かは不明で、墳丘裾部から周濠低部への傾斜角度は約12度であった。墳丘裾部葺石は、転落したと思われる葺石は、川原石や割石で、原位置を保つものは無かった。裾部から1メートル程度離れた場所にも葺石があり、底部に葺石と円筒埴輪片、須恵器器片が散乱していた[9]
      • - 層位は、上層から盛土、耕作土、床土、灰黄色粘質土、地山であり、地山は、ほぼ平坦に成形されていたが墳丘側の地山面よりも14センチメートル程低かった。地山の上層の粘質土は堤の整地度だが、古墳築造当初も物ではなく円筒埴輪片、12 - 13世紀代の中国の龍泉窯系青磁器が含有しているため、12 - 13世紀代に耕地化された、もしくは15世紀以降に堤を再構築し、周濠を再整備したと考えられた。提周濠内側の傾斜面に葺石はなかったが、提上に円筒埴輪があったと考えられ、傾斜角度は25 - 30度であった[9]
      • 遺物[9]
        • 円筒埴輪 - 大半が、周濠最下層と墳丘裾部から出土し、後縁部の形態が、水平に外反、少し外販、直立の3タイプがあった。
        • 須恵器特殊器台 - 周濠最下層の墳丘側からから出土し、台部と垂直部の接合部付近に、接合の粘土痕やや指圧痕が残っていた。
        • 備前擂鉢 - 周濠最下層から出土し、堺環濠都市遺跡(外部リンク参照)や備前焼編年の中世5基a[10]の擂鉢に酷似し15世紀ごろの物と考えられる。
      • 中国龍泉窯系青磁碗 - 外提内の灰黄色粘質土から出土。釉調、胎土から15世紀代と考えられる。
  • 2007年(平成19年) - 国庫補助事業発掘調査。墳丘の西側の周濠の状況と前方部の規模や形状の確認のために調査が行われた[11]
    • 前方部前面と前方部西側隅と推定される2箇所に調査区が設けられた[11]
      • 層序 - 現状において、本古墳周囲は大仙公園関連整備予定地区内にあり、臨時駐車場としても使われることから、今回の調査区はアスファルトに覆われている。アスファルト下には砕石と造成に伴う厚い盛土が施工されていた。その盛土下に、造成前の旧耕作土と耕盤が水平に堆積し、濠埋土も確認された[12]
      • 1区 - おおよそ墳丘主軸に沿った場所に配置された[13]
        • 濠外肩が確認され、濠の斜面は2段になって深くなるが、上段部分では、瓦器を含むため、後世の耕作による削平と判断された。その為、本来の濠外端は、下段部分の斜面延長上に近いと考えられた。当調査区では、墳丘側の濠内端は確認できず、濠幅は不明であった。
      • 2区 - 2006年の調査区よりも北西7メートル付近に設置された[13]
        • 濠の内外両端を確認できた。濠外端の斜面は緩やかであるが、3段になって深くなるが、1区同様、上部2段分は中世以降の耕地造成のための削平と考えられた。調査区南端において、前方部北隅に相当する墳端を確認した。前方部北面斜面で、転落と考えられる葺石と埴輪片が出土した。
      • 遺物 - 今回の調査で、埴輪、須恵器、瓦器などが出土した[14]
  • 2008年(平成20年) - 発掘調査を前提とした、地中レーダ探査による非破壊調査が行われた[15]
    • 本古墳群の東側、南側、西側の周濠は、調査により部分的に確認されているが、北側においては未調査であり、また墳丘(後円部)においても未調査で、埋葬施設などの遺構有無など未確認であるため、北側の周濠と墳丘で調査が行われた[15]
      • 北側 - 地中レーダの反射面の落ち込みが確認されたが、既往の調査結果・周濠分布形状から分析すると、周濠外縁部と考えられた。また周濠と考えられた範囲の北側において、レーダ反射面の高まりが確認されたが、2006年の調査で確認されている中世に構築されたと考えられる堤の可能性が高かった[16]
      • 墳丘(後円部) - 標高20.5メートル - 21メートルにおいて、直径25メートルの円周状に平坦な反射面が確認されたため、墳丘の外部施設のテラスの可能性が高いと考えられた。また、そのテラスと考えられる範囲の内側に、複数の掘り込み状のレーダ反射面が確認されたが、遺構との関連性については判別できなかった[16]。墳丘南側の地表面で、レーダ反射の落ち込みと高まりを確認したが、既往の調査結果より、レーダ反射面の落ち込みは周濠で、高まりは周提もしくは中世の構築された堤の可能性があると考えられた。
      • 墳頂部 - 墳頂部西側と南側で、掘り込み状のレーダ反射と落ち込みが確認されたが、盗掘穴や遺構との関連性は判別できなかったが、墳頂部であることから、竪穴系主体部の掘り込み跡、盗掘穴などの可能性は否定できなかった[17]
  • 2008年(平成20年) - 地中レーダ探査による調査結果に基づき、発掘調査が行われた[18]
    • 後円部の北側の児童公園に1区、墳丘南側くびれ部に2・3区、後円部墳丘に4・5区の計5区の調査区が設置された[18]
      • 表土、盛土などは1・2・3区では、機械で、4・5区では人力で掘削して遺構を検出し記録し、出土物は原則埋没保存し、調査終了後、転圧機を用い埋め戻し原状復帰させた[18]
        • 1区 - 児童公園内にあり、本墳と大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の3重目の外濠との間に位置し、後円部北側の調査としては初めてである。地中レーダ探査により推定された周濠と、その外側の状況を確認することを目的として設置された[19]
          • 層序 - 盛土、旧耕作土、耕作に伴う床土などがあり、その下層に濠埋土、低位段丘相当層であった。盛土は公園造成に伴うもので、建築廃材が混じり60 - 90センチメートルの厚みがあった。旧耕作土は、盛土による造成前まで耕作されていた水田で、下層に床土を伴った。濠埋土より上部層から瓦器が出土し、濠埋土表層からは埴輪小片が多数出土した[19]
          • 遺構 - 濠の外端を確認し、地中レーダ探査と同様の低位段丘層が堤状に高まりを確認した。周濠の内外にある耕作地の畦と考えられるが、その分布から当初は堤として造成された可能性も考えられた。堤側には埴輪や葺石は確認されなかった[19]
        • 2区・3区 - 後円部に設置された5区と連続的な記録が取れるよう墳丘南側くびれ部裾辺りに2区が設置され、2区に隣接し、墳丘裾から濠を横断し濠外端まで達する3区が設置されたが、効率化のため一連の調査区とされ、墳丘から周濠外端まで連続した調査による墳丘くびれ部裾の面的な把握を目的に設置された[19]
          • 層序 - 盛土、旧耕作土、床土を含む客土、濠埋土、低位段丘相当層であった。
          • 遺構 - 南側くびれ部の周濠の全幅を確認した。
  • 2009年(平成21年) - 地中レーダ探査による非破壊調査が行われた[20]
    • 過去の確認調査やレーダ調査により、後円部周囲の周濠の分布状況は、ほぼ確認されているが、削平されている前方部と、その周囲の周濠の分布状況については把握できておらず、また前方部は、現状、アスファルトで覆われているために容易に発掘調査ができないことから、前方部と周濠について、非破壊で広範囲に遺構の埋蔵状況を把握するために調査が行われた[20]
      • 調査地の広範囲でレーダの反射面の落ち込みが確認され、過去の確認調査と分布状況から推測すると、前方部周囲の形状が盾形に分布する周濠と考えられた。また、周濠の内縁部から内側は、削平された前方部に相当した[21]。調査地の西側では掘り込み状のレーダ反射面が検出され、周濠の外側に相当することから、過去のトレンチ調査で確認した溝状の窪みが連続している可能性が考えられた[21]

出土品

前述の円筒埴輪、須恵器の他に朝顔型埴輪、形象埴輪、多数の葺石が出土されている。葺石は八割以上が和泉市から岸和田市にかけての河川で採取されたものと推定されている[22]

ギャラリー

文化財

国の史跡

史跡:百舌鳥古墳群を構成する19古墳のうちの一つとして、史跡に指定されている[23]

脚注

[脚注の使い方]

出典

  1. ^ a b c d 収塚古墳/構成資産/百舌鳥・古市古墳群―古代日本の墳墓群―/世界遺産/国指定文化財等データベース”. 文化庁. 2021年11月25日閲覧。
  2. ^ a b 古墳群 2014, p. 24.
  3. ^ a b 収塚古墳(おさめづかこふん)/仁徳天皇陵古墳百科”. 堺市役所 文化観光局 博物館 学芸課. 2021年11月25日閲覧。
  4. ^ 古墳築造 2009, p. 127.
  5. ^ 古墳群の調査10 2016, p. 2.
  6. ^ 古墳群の調査3 2010, p. 210.
  7. ^ 古墳群の調査10 2016, p. 36.
  8. ^ a b c 古墳群の調査1 2008, p. 51.
  9. ^ a b c d 古墳群の調査1 2008, p. 52.
  10. ^ 備前窯 2013, p. 6.
  11. ^ a b 古墳群の調査2 2009, p. 4.
  12. ^ 古墳群の調査2 2009, pp. 4–6.
  13. ^ a b 古墳群の調査2 2009, p. 6.
  14. ^ 古墳群の調査2 2009, p. 7.
  15. ^ a b 古墳群の調査3 2010, p. 96.
  16. ^ a b 古墳群の調査3 2010, p. 106.
  17. ^ 古墳群の調査3 2010, p. 107.
  18. ^ a b c 古墳群の調査3 2010, p. 114.
  19. ^ a b c d 古墳群の調査3 2010, p. 116.
  20. ^ a b 古墳群の調査3 2010, p. 108.
  21. ^ a b 古墳群の調査3 2010, p. 113.
  22. ^ 古墳群の調査10 2016, pp. 32–35.
  23. ^ a b c 百舌鳥古墳群/史跡名勝天然記念物/国指定文化財等データーベース”. 文化庁. 2021年11月18日閲覧。
  24. ^ 御廟山古墳内濠”. 堺市役所文化観光局文化部文化財課. 2021年11月20日閲覧。
  25. ^ ニサンザイ古墳内濠”. 堺市役所文化観光局文化部文化財課. 2021年11月20日閲覧。

参考文献

  • 松村隆文「収塚古墳」『日本古墳大辞典』 株式会社東京堂出版 1989年
  • 『百舌鳥古墳群 -堺の文化財- 第7版』堺市文化観光局文化部文化財課、2014年。 
  • 堺市生涯学習部文化財課 編 『百舌鳥古墳群の調査1』堺市教育委員会、2008年3月31日。 
  • 堺市市長公室文化財部文化財課 編 『百舌鳥古墳群の調査2』堺市教育委員会、2009年3月31日。 
  • 堺市市長公室文化財部文化財課 編 『百舌鳥古墳群の調査3』堺市教育委員会、2010年3月31日。 
  • 堺市生涯学習部文化財課 編 『百舌鳥古墳群の調査10』堺市教育委員会、2016年3月31日。 
  • 堺市博物館 編 『平成21年度秋秋季特別展『仁徳陵古墳築造 ー百舌鳥・古市古墳群からさぐるー』』堺市博物館、2009年9月。 
  • (PDF) 『備前窯詳細分布調査報告書』備前市教育委員会、2013年https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/16/16597/12384_1_%E5%82%99%E5%89%8D%E7%AA%AF%E8%A9%B3%E7%B4%B0%E5%88%86%E5%B8%83%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf 

関連項目

外部リンク



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「収塚古墳」の関連用語

収塚古墳のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



収塚古墳のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの収塚古墳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS