原総裁の時代
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次いで成立した第1次山本内閣は、当初は閣外協力の予定であったものを西園寺のすすめにより与党として参画。閣僚全員が政友会員ないし原総裁と近しい人間という、事実上の政友会内閣となった。 その後、第2次大隈内閣では野党に転じるが、大正デモクラシーの波にのって成長し、1918年米騒動後、1918年(大正7年)に原敬が首班となって、日本最初の本格的な政党内閣を組織した。 大正時代の政友会は、原敬を核として山本達雄、水野錬太郎、高橋是清ら伊藤博文系の政治家や非山縣有朋系官僚等を中心にして当時議会の多数派を占めていた大政党であり、「積極政策」を政策の目玉とし、地方利益の獲得を党勢拡大の梃子にしていた。ただ、原敬の歿後、党内で党人派=総裁派(高橋是清、尾崎行雄、野田卯太郎、横田千之助、小泉策太郎、小川平吉、岡崎邦輔ら)と官僚派=非総裁派(山本達雄、床次竹二郎、中橋徳五郎、元田肇ら)の対立傾向が先鋭化し始めていた。
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