印刷事業が本業を支える
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:49 UTC 版)
焼け野原状態に近い東京の印刷工場は壊滅だった。 ダイヤモンドの強みは印刷工場をもっていた点にある。印刷工場を持つという石山の発想は、創刊5年の大正7年に内幸町に土地を買い求め、2階建て30坪の本館と12坪の印刷工場を建てたことに始まる。最初の設備では少部数のダイヤモンド日報のみ印刷していた。大正14年から組版、印刷、製本にいたるダイヤモンドの一貫生産体制を整えた。その後設備投資を続け、昭和10年頃には、東京府内の印刷工場中でも大工場と称される水準になっていた。 石山は、この戦災を乗り越えるには壊滅状態の中小印刷業を買収することが肝心だと考えた。当時大蔵省の委員をしていた関係で知り合った広瀬豐作大臣と印刷業集約の相談をしている。そして、石山は印刷機の投資に走り、一般の印刷需要に積極的に応じた。結果、ダイヤモンド印刷は都内有数の印刷会社に成長した。本業のダイヤモンドは赤字状態が続いたが、子会社事業である印刷業が復興を担ったのだ。
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