博多惣構論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/23 13:26 UTC 版)
小島道裕・前川要両氏の研究によれば、大名直属の町人居住域と在地の市町の統合をもって一元的構造をなす都市が成立、それを惣構によって取り囲むことによって近世的城下町が成立するとする。その前提に立てば、黒田政権初期の段階で、博多を福岡城の惣構の内に取り込み、博多南縁の堀をその南縁の防禦ラインとした都市建設は、当該期の都市計画理念と合致することになる。なお、これについてはいくつか傍証がある。 1)石堂口は博多の東の入口であるが、その整備は福岡城関係普請工事と平行して行なわれた。ここにも側面攻撃のための横矢がけが施されており、黒田長政によって惣構の門として整備された可能性が考えられる。石堂口の両脇には慶長8年頃までに寺町が整備されているが、一列に並べられた寺が防禦ラインを構成することは既に指摘されている通りである。 2)近世初期(1643年)、博多には間口の合計が四町にも及ぶ侍町が存在した。福岡城築城の頃、ここに「松本五郎右衛門預かり、三十疋立の御厩」があったという。この侍町が黒田長政の福岡城築城直後まで遡るという前提に立てば、博多南縁の堀が惣構えとして機能していたことの傍証たりうる。近世初頭の城下町において、侍町を惣構えの外に置くことはまず考えられないからである。
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