南西ソマリアの成立とその後
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「ラハンウェイン抵抗軍」の記事における「南西ソマリアの成立とその後」の解説
2002年4月1日、ラハンウェイン抵抗軍(RRA)の指導者シャティガドゥドは、支配地域を南西ソマリアとして独立宣言。ただし形式上は、RRAと南西ソマリアとは別組織とされ、シャティガドゥドはRRAの議長であり、南西ソマリアの大統領でもあった。南西ソマリアは、ラハンウェイン氏族の長老、RRA幹部、地元の宗教指導者、企業家など36名からなる調停委員会が運営することになった。2002年6月上旬、シャティガドゥドはエチオピアを訪問。これが後のソマリア暫定連邦政府(TFG)に繋がる。ただし、マドベやハブサデとのわだかまりの原因ともなる。 6月下旬、副議長だったマドベとハブサデがシャティガドゥドの元を離脱し、RRA内部の抗争が始まる。マドベらの離脱は、別の軍閥ジュバ渓谷連合の画策との説もあったが、ジュバ渓谷連合はこれを否定している。7月22日、マドベは自身がRRA議長になったと宣言。8月、シャティガドゥドがバイドアを奪回。9月、シャティガドゥドとマドベは休戦協定を結んだ。2003年10月にはバイドア近郊の戦闘で、数百名が避難している。 2004年にはソマリア暫定連邦政府(TFG)が成立。TFGは地方自治を大きく認める連邦制を標榜しており、南西ソマリアもこれに参加。2005年5月、シャティガドゥドとマドベの連合軍が、ハブサデの支配地域を攻撃。2006年、イスラーム武装勢力イスラム法廷会議が急速に力をつけ、ソマリア南部の多くの地域を支配。RRAの本拠地バイドアのすぐそばまで支配地域を広げるが、エチオピアの参戦によりイスラム法廷会議は衰退。 2008年、別のイスラーム武装勢力アル・シャバブが力を付け、RRAの支配地域を含むソマリア南部を占拠。RRAの本拠地バイドアも、2012年までアル・シャバブの支配下となった。2014年にはシャリフ・ハッサン・シェイハ・アデン(英語版)が南西ソマリアを再結成するが、RRAは関与せず。
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