医科大学昇格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 01:00 UTC 版)
学校長就任後、学生の勉学向上のため日中学生が自由に居られる場であり集会や急の宿泊場所として活用できる「学生集会所」を1915年(大正4年)に建設した。 また、同年には徳寛の発意により職員卒業生三百七十余名が発起人となり、大正天皇即位大礼を記念して「財団法人千葉医学専門学校奨学会(1920年(大正9年)「猪之鼻奨学会」へ名称変更)」を設立した。奨学会は日露戦争を通じて医学の更なる進歩発展が必要との認識から、「医学者をして研究の便益と資料とを得せしめ以って其の業績を奨進助成する」ことを目的としている。 1917年(大正6年)頃より5医学専門学校の大学昇格が論じられるようになり、千葉医学専門学校も1923年(大正12年)4月1日千葉医科大学に昇格した。これに伴い徳寛は初代学長に就任した。 大学昇格の翌年1924年(大正13年)2月1日、徳寛は定年により大学長を辞し、3月1日名誉教授となった。以降、鵠沼に隠棲し1933年(昭和8年)2月19日に逝去。
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